ピアノのある生活、ピアノと歩む人生

「ピアチェーレ」代表の私的ブログ

忘れ物 

 

本日、リサイタル会場に忘れ物(落とし物)がありました。

フェルト地のブローチです。おそらく、コートにつけていたものが落ちたのではないかと。

本日の会場のオーナーさんが保管してくれています。

コートなどをチェックし、「あっ!ブローチがない!」という方は、本日の会場までメールか電話で連絡してみてください。

kaz


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category: リサイタル

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サムライ・ベルゴンツィからのお礼 

 

本日のリサイタル、無事終了しました。「サムライ・ベルゴンツィの告知」という文章を、このブログに書いたのは、昨年の7月だった。イタリア人の友人が「君は日本のベルゴンツィのようだ。サムライ・ベルゴンツィだ」と言ってくれたので、サムライ・ベルゴンツィになったつもりで告知した。僕の演奏がカルロ・ベルゴンツィの歌唱に似ているという意味で友人はそう言ってくれたのではないだろう。どこかベルカント、どこかイタリア人のような感情表現をする・・・という意味ではないかと思う。

まだリサイタルの日にちも決まっていないその時、僕は「切なくなるほどの感情表現を聴き手と共有したい」と書いている。今日、それは達成できたのではないかと自分では感じている。

ある種の音楽を聴いた時、切ないほど感情が動く。それは僕の過去体験、現在の日常生活と密接に関係していると思う。バーンスタインが言うように、音楽は言葉で表現できない深い感情までも表現してくれるのだ。誰でも心が痛くなるような経験はある。音楽、演奏で共有できたという思い、それは僕は孤独ではないということだ。音楽によってそれを感じることができた、それが自分の出来栄えがどうこうということよりも、まずは非常に嬉しい。

今日、聴きにいらしてくれた方々、本当にありがとうございました。また、スタッフとして協力してくれたサークル仲間の人たち、本当にありがとうございました。今、沢山の贈り物に囲まれながらこの文章を打っている。

比較的短期間に準備をしたように思う。今まで弾いてきた曲を全部出し切ったという感じで、タンクは空・・・という感じではある。でも、また同じようなことをしてみたいと思う。まだタンクは空なので、充填するまでは時間を要するけれど、またやってみたい。切なくなるほどの感情表現を、また共有してみたい。

kaz




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category: リサイタル

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鬘の人たち 

 

今はどうなのか知らないが、昔は音楽室に作曲家の肖像画が飾られていた。左端にいた「鬘の人たち」、ヴィヴァルディ、バッハ、ヘンデル、もう少し右の人たちも鬘だったような気もするが、いわゆるバロック時代の作曲家は鬘の人たちなんだという印象を小学生だった僕は持ったものだ。

この鬘の人の作品、いわゆる正統ピアノ道を歩んだ人、まずは音楽室ではなくピアノ教室のレッスン室でご対面したのではないだろうか?昭和の時代ということを考えると、おそらく、その作品はスカルラッティ(ドメニコの方ね)ではなく、バッハのインヴェンションとか。僕自身はバッハを習ったという経験はないので、当時のピアノ教室で聴こえていたバッハから想像すると、それは多少(かなり?)学習バッハサウンドだったように思う。「ここに主題が出てくるの。もっと強く」「ペダルは使わないで」みたいな乾燥バッハ(?)だったような?コツコツ、カツカツ・・・のような?

むろん、そのサウンドは「素敵!」というものではなかったが、根底には、それなりに「当時の楽器」「当時のスタイル」というものを優先していたように思う。それ自体は悪いことではないのだろう。

僕の場合、鬘の人の作品としては、鑑賞者としてヘンデルから入った。ここが真面目なピアノ道を歩んだ人とは異なるのかもしれない。ヘンデル、「調子のよい鍛冶屋」ではなくオペラから入った。特にマリリン・ホーンの歌唱に惹かれた。

マリリン・ホーンのヘンデル、凄く魅惑的で闊達だった。そして小学生だった僕はこう思ったのだ。「鬘の人(バロックの人とも言う)ってお茶目!」と。厳格な(?)昭和バッハ指導を受けた人は、バッハのインヴェンション、「お茶目!」「楽しい!」などと感じながら弾いていたのだろうか?

スカルラッティと言えば、ドメニコではなくアレッサンドロを連想するような少年、つまり歌の世界がピアノ(鍵盤楽器)よりも身近であったので、バロック=闊達、華々しい、挑戦的・・・のような、ちょっと変わった感覚を持ってしまったのかもしれない。

当時の、オリジナルの、つまり原典というものを尊重する。楽譜の研究とか、当時のスタイルに忠実にとか、研究が進んだ。それは現代の演奏スタイルがバロックに限らず、ザハリヒなものになっていったことと無関係ではないだろう。それはそれで素晴らしい。個人的にはザハリヒなスタイル、もうこれは限界かな・・・などと昨今の演奏を聴くと感じたりするが、それは個人的な好みの問題もあるだろう。どちらがいいとか、そのようなことではないのだろう。

でも、当時の再現・・・その「当時」というものが、特に鬘の時代のそれにおいて、やけに禁欲的ではないだろうか?いかにも古っぽくというか?

当時の踊りを考えてみましょう・・・確かに有益だとは思う。「クーラント」とか「アルマンド」を弾くのには、欠かせない情報であり、学習ではあろう。重い、パニエバリバリのドレスで情熱的なタンゴは似合わないし、踊れない。そうなのだろう。でも「いかにも昔」のような演奏が正しいのだろうか?正しいのかもしれないが、現代人の我々が「おっ?これは凄い」と思うような闊達なバロック時代の作品の演奏に出会ったら、それは現代感覚のものであり、当時のスタイルと、もし異なっているのだとしたら、それは価値のないものなのだろうか?声楽のバロックは、あれほど生き生きと人間的であり、闊達であるのに、どうして鍵盤楽器のバロックは「いかにも古っぽく」という演奏が多いのだろう?それは鑑賞者としての素朴な疑問でもある。

鑑賞者としての素朴な疑問は他にもある。ショパンなど、かなり即興性のある演奏をしていたらしい。ヴァリアント盛りだくさん・・・のような?そうだとしたら、当時のスタイルに忠実ということは、研究成果の高いエディションに印刷されているように演奏する、この行為は当時のスタイル、原典に忠実と言えるのだろうか?ショパンコンクールでヴァリアント満載の演奏をしたら、はたして予選通過できるのだろうか?現在でもベルカントオペラでは普通のことなのだが・・・

先のカルミニョーラ問題(?)について考えてみても、カルミニョーラが現代的・・・なのではなく、ヴィヴァルディは当時、非常にホットでポップな音楽であったのではないかと想像してみたら?想像としては非常に面白い。もしかしたらカルミニョーラは当時の再現に近いのかも?「いかにも古式」という演奏よりも・・・

ジャン・ロンドーという演奏家、この人の演奏って大胆だな、闊達だな、挑発的だなと感じる。現代の僕に直接訴えてくるような?演奏しているのはジョゼフ=二コラ=パンクラス・ロワイエという作曲家の曲。「スキタイ人の行進」というタイトル。スキタイ人って?ロワイエさんで何処の国の人?

ブルボン王朝の人らしい。ルイ15世の子どもたちの音楽教師だったとか?そうすると、ルイ16世、マリー・アントワネットの親世代が習った人ということになる。

重いドレスだったのではないだろうか、鬘だって相当な重さだったはずだ。むろん飛行機もないし、馬車だったのだろう。パソコンもCDもない。ゆったりした時間が流れていたのだろう。

でも闊達な時代であったのかもしれないよ。

kaz




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3パーセント 

 

ベンジャミン・ザンダー氏によれば、日常生活の中でクラシック音楽を身近に感じ、聴いている人は3パーセントなのだそうだ。クラシック愛好家と言われる人たちかな?知識豊富な人もいるだろうし、知識、うんちくということよりも、ただ好きだから聴いているという人もいるだろう。でも3パーセントとは・・・

残りの97パーセントの人は、クラシック音楽がかかっていれば、別に嫌悪感は感じないし、まっ、いいんじゃない・・・みたいな?でも自分から積極的に聴いてみようとは思わない。中にはクラシック音楽コンプレックスみたいな人もいるらしい。「クラシックなんて高尚な音楽は理解できなくて」「聴いても分からないし」「なんだか堅苦しそうなんだよね」みたいな人たち。

「クラシック音楽入門」のような本はたくさんある。これらの本からクラシック音楽の世界に入っていける人も、まあ存在するのだろうが、音楽の好みって人それぞれで幅があるものだから、有名曲、分りやすい曲が感動とはイコールにはならないこともある。そこがこのような入門本の難しいところなのかもしれない。例えば「おもちゃの兵隊の行進」のような曲、たしかに分かりやすい曲だとは思うし、「あっ、キューピー3分クッキングの曲だ」・・・とは思うから、そのような意味で入門編の曲なのかもしれないが、「クラシックも聴いてみればいいものね」と全員がこの曲から感じるかは疑問に思ったりもする。

「ショパン?白鳥の湖の人?」のような知識の人でも、ヴンダーリヒの歌うシューマン、「詩人の恋」に涙したりするのだ。「詩人の恋」はクラシック入門編という感じの曲ではないだろう。つまり人によるし、好みには幅がある。知識がないから好みは一律ということはないので、そこが入門段階(?)の難しさでもあろう。

クラシック音楽にも親しみたい、でも何から聴いていいのか分からない。このような人は多いようだ。クラシック音楽に限らないが、曲そのものの印象というものは、演奏によって、かなり左右されるものではないだろうか?ややもすると、それらの演奏の優劣などは、クラシック音楽に対して深い知識のある人だけが聴きとれるもので、何も分からない、クラシック音楽なんて聴いたこともないような自分は、とてもとてもそんな高度な耳などは持っていないと考える人がいても不思議ではない。

ヴィヴァルディの「四季」にまず魅せられてしまった人がいる、入門本に載っていたので、まず聴いてみたらしい。「えっ?これってクラシック?えっ?ポップじゃん?」その人はそう感じた。曲にもだが、演奏に惹かれていった。ジュリアーノ・カルミニョーラという人がヴァイオリンを弾いていた。「これって凄くね?」

この人のヴィヴァルディなら是非生で聴いてみたい!

そして実際に生のカルミニョーラというか、ヴィヴァルディというか、「四季」を聴いたのだそうだ。「凄い!凄すぎる!!!」

でも、休憩中のロビーで、いかにもクラシック通という感じの男性(うんちくおじさん?)がこう言っているのが聞こえてきてしまった。「テンポが速すぎるね、勢いばっかりで音程があやふやじゃないか?それにあのボウイングは何なんだ?」

「えっ、そうなの?僕はいいと思ったんだが?聴く耳のある人はそう感じるんだ。クラシックを聴きなれている人の耳はそう感じるんだ。やはりクラシック音楽って難しいんだ」

たしかにボウイングとか、バロック音楽のスタイルからすると、彼の演奏はどうたらこうたら・・・などと言われたら、「自分はいいと思ったが、本当はそうではないんだ」などと思ってしまう入門者はいるかもしれない。自分がいいと感じたことが、かえってクラシック音楽を遠ざけてしまう。これって不幸なことだと思うし、何か違うのでは・・・とも思う。

この場合、うんちくの弊害なのではないだろうか?僕はそう思うのだが。ほかのジャンルの音楽では、あまりないような気がする。ジャズなどもそのような人の存在を感じたりするが、クラシックほどではないような?

3パーセント、衝撃的な数字ではある。100人のうち、たった3人だよ?子どもの数が減少しているので、高度経済成長期ほどの勢いはないものの、日本はピアノ教室の数は多いと思うし、ピアノ人口も多いように思う。毎日複数のピアノリサイタルが大都市では行われ、地方にも立派なピカピカホールが沢山ある。そのホールには外国製の最高級ピアノ(?)が搬入されている。

でも3パーセント?

kaz




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10パーセントからの生還 

 

一連のカレーラスの歌唱、すべて同じ演奏会のもの。意図的に同じ演奏会の歌唱を張り付けた。たしか、カレーラスが白血病という病に倒れたのは、1987年だったと記憶している。化学療法を行い、そして自分の骨髄を移植していたはずだ。適合する骨髄が見つからなかったからだと思う。生還できる可能性は10パーセントと言われていた。

張り付けた演奏会は1988年のもの。つまり翌年に復帰したときの演奏だ。誰もが再びカレーラスを聴けるとは思っていなかったのではないだろうか?10パーセントだったのだから・・・

舞台に立っているというだけで奇跡ではなかったか?

「グラナダ」は厳密にはスペインの曲ではない。作曲者はメキシコ人のアグスティン・ララだからだ。なのでメキシコの曲ということになる。ララは一度もスペインを訪れたことはない。でも彼は自分の中のイメージだけでスペインそのもの、スペインの「ソル」そのものの「グラナダ」を作曲した。スペインの曲としてもララは怒らないだろうと思う。

歌詞もララのものだ。血の気の多い歌詞というか、恋多き男の歌詞という感じではある。ララは10回の結婚、離婚を繰り返した男なのだそうだ。

10パーセントの確率から生還した歌手が、スペインに憧れたメキシコの恋多き男の曲を歌っている。素敵だなと思う。

kaz




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