ピアノのある生活、ピアノと歩む人生

「ピアチェーレ」代表の私的ブログ

日本発祥のスポーツ 

 

昔はフィギュアスケート、マイナーなスポーツだったのか?日本でも、それなりに人気はあったように思うけれど、全日本選手権のチケット入手が困難・・・みたいなことはなかったように思う。1985年の世界選手権、東京で開催されたのだが、シングルのフリーでも空席はあったと記憶している。フィギュアスケート、今ではアマチュアの選手もスポンサーがついたりしているらしいけれど、やはりアマチュアとプロとの境目は、はっきりしているように感じる。現役引退みたいな形で明確化されているように思う。

これは完全に僕の偏見なのだと思うが、オリンピック競技の放送で、ゴルフとかテニスなどを観ると、ちょっと違和感を感じたりもする。プロとして賞金を稼いでいるような人がオリンピック?なんとなくそう感じてしまったりもする。まぁ、いいのだが。

世の中にはマイナーなスポーツというものもあるらしい。新体操はどうだろう?スリムで小柄な女性(少女?)が柔軟性を活用し、美の競演をする。魅せる競技、パフォーマンスとして技術だけではなく、観客のテンションを集める表現力・・・みたいなことも重要だったりする。そのような意味ではフィギュアスケートと近いような?女子の新体操はオリンピック競技になっているぐらいだから、メジャーではあるのだろう。

男子にも新体操はある。女子と、ある意味では似ているかな?個人と団体があり、男子も個人では種具を用いる。クラブとかロープとか。さすがに男子にリボン・・・はないが。

男子新体操の競技人口は約1000人。これではマイナーなスポーツかもしれないね。各国に1000人・・・ではなく日本で1000人。競技人口は日本に集中している。男子新体操は日本発祥のスポーツなのだ。海外に男子新体操の魅力を発信したりとか、色々とやっているらしいのだが、国体の競技からも男子新体操は、はずされてしまったりと、なかなか難しいようだ。

男子新体操、発祥国日本においてさえ、あまり馴染みは少ないのかもしれない。もしかしたら「え~っ、男にも新体操があるの~」みたいな人もいるかもしれない。見てみると、これがまた素晴らしいのだ。このようなスポーツ競技が消滅してしまうのは、なんとも勿体ないと思う。

このブログは新体操ブログではないし、スポーツブログでさえない。このブログを訪れる人は、何かしら「ピアノ」と関係ある人が多いだろうと想像する。そのような人に、一人でも「えっ?男子の新体操ってこんなに素晴らしかったの?」と知ってもらいたい気持ちがある。

鹿児島実業高校、野球部が有名らしいのだが、この高校、新体操でも有名なのだ。大会で連覇している・・・みたいなチームではないのね。成績だけを見ると、あまりパッとしないのかもしれない。でも演技が非常にユニークなのだ。およそ3分間の演技なのだが、見入ってしまう。飽きさせない、これは、ある意味非常に難しいことのように思う。それを鹿児島の高校生がやっているということに、まず驚く。

もともと、あまり強いチームではなかったらしい、大会に出場できるということは、鹿児島実業高校新体操部にとっては、当たり前のことではなく、ある意味「ハレ」の舞台であった。数少ない機会であるのなら、なおのこと印象に残る演技をしたい・・・そう監督は思ったのだそうだ。ユーモラスな動き、振り付けは生徒(選手)と監督との共同作業なのだそうだ。

監督はこのように言っている。

「ビデオで早送りされないような演技をさせたい」これは非常に難しいことのように思うが、彼らは見事にクリアしている。

kaz




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自分たちの中にある原因 

 

先のアーンを独唱している人も、このラフマニノフを弾いている人も韓国の人。日本人演奏家の平均的演奏と比較すると、なにか表現意欲旺盛というか、したたかというか、闊達な印象を持つ。僕なりに考えていたことは、民族的なものがどうこうというよりも、韓国の音楽留学というもの。かの国ではヨーロッパなりアメリカなりに、非常に幼い頃からスパーン(?)と渡ってしまう人が多いような?小学生とか?日本の場合だと、音大4年生を終えてからとか、割と悠長というか?まぁ、人によるとは思うが、平均的にはそう感じる。音楽高校を終えて・・・でも、もう18歳。そこから・・・というのは、かなり遅い感じになる。日本の場合、学歴というものへの拘りはあるのかもしれない。人気ピアニストになれればいいけれど、そうでない場合、学歴がないと厳しい。むろん、外国の学位取得ということでもいいけれど、正式なディグリー取得をする場合は、ピアノのレッスンだけを受けていればいいわけではない。大変に厳しい語学力の問題というものが絡んでくるはずだ。特に大学院ではなく学部留学の場合。

ご本人に訊いたわけではもちろんないけれど、中村紘子さんのジュリアード音楽院留学、あれはマスターズディグリーではなく、ディプロマだったのではないかと思っている。そうだとすると、彼女の日本流の最終学歴は「中卒」ということになる。高校を退学して留学していたと思うので。中村紘子さんのように有名になれればいいけれど、そうでなかったら?このあたり、日本人の留学発進の遅さの一因ではないかと。22、22歳になってからでも遅くはないけれど、やはり多感な時期を外国で過ごす韓国人音楽留学生とは、どこか差がついてしまうのかもしれない。

でも、このような基準というか、僕の考えは、根本的に「日本が普通」という感覚に基づいている。物心ついた時から日本に住み、日本人だけの中で日本語を話して育ったので、僕は「日本が普通」という感覚を持っているのだろうと思う。そこを基準にする。もしかして、日本では普通でも世界からすると、異端・・・ということもあるのかもしれない。

いきなり算数の話しなる。このような問題があったとする。「1袋に8個のアメが入っています。その袋が7袋あります。袋に入っていないアメが17個あります。アメはいくつありますか?」ある生徒が次のように解答した。そして教師はその答えを不正解にした。

8×7+17=73  アメは73個

何故不正解なのか?何故なら、その生徒はまだ授業で掛け算を習っていないから。こう答えなければならなかったらしい。

(8+8+8+8+8+8+8)+17=73

この話は有名な話らしく、「ひぇ~、それはおかしくない?」という人が「掛け算をまだ授業で習っていないんでしょ?じゃあ生意気に掛け算なんか使っちゃだめじゃん」という反応の人を圧倒していたのがせめてもの救いだが、なんとなく「ああ、日本・・・」という気はする。でも、僕自身、このようなことに自然と順応させて生きてきたように思う。ここは日本だから・・・と。国語のテストで小説か何かの一部の文章が載っていて「主人公の気持ちを答えなさい」などという設問があったりすると、心の中では「そんなこと作者じゃなければ答えられませ~ん」と思っても、正直に書くとどうなるか知っていたので、こう答えたらいいんだろうな・・・みたいな答えを書いていたように思う。そのようにして、周囲に順応させながら生きてきた。このようなことって、長い間には「それが普通」みたいな感覚になっていってしまうのではないだろうかとも思う。本人は意識しなくなっていく・・・

何故に韓国の演奏家は・・・ではなく自分たちが「ああ、日本・・・」であるという可能性。

何故○○さんは○○なの?原因を相手だけに探るのではなく、独自の、独特の自分というところへも広げてみる。

また新たなパズルの一片が見つかったようだ。

kaz




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パズルの一片 

 

パズルの一片のようで、その場では解決できないのだが、心の中に保存しておけば、そのパズルが、ある時、偶然に形になる。なんとなく日常生活において、そのようなことは度々ある。忘れてしまうことも多いけれど。

今朝偶然にテレビで観た光景。日本人歌手、この人はカウンターテナーなのだが、ウィーン国立歌劇場にデビューするという話題だった。日本人のカウンターテナーとしては初めてだとか?快挙・・・なのではないかと思う。その歌手が衣装をつけた状態で、女性にこう言う。その女性はオペラハウスのスタッフなのか、歌手なのかは分からない。西洋人だ。「僕、この歌劇場、今日がデビューなんだ」女性はこう答えるのだ。「成功するに決まっているじゃない?」と。日本人だったら、普通、このような時、「頑張って!」と言うのではないかと思った。頑張って・・・がいけないわけではない。成功に決まってるでしょ・・・は素敵な言葉だ。でもこの反応は一般的な日本人とは違うなと。この小さな違い、色々な事にもリンクしているような?

この時の西洋人女性の言葉はパズルの一片として僕の中に入ったのだ。むろん、そのパズルはすぐには完成はしない。でもこれって意外と大事な一片なのかもしれない。

ピアノ指導法、奏法、このようなこと、いや、ピアノに限らずだと思うが、あることを身につけたいとか、自分に不足していると感じたら、一つの「こうであるべき」ということを集中的に、無批判に取り込もうとするだけではなく、少しの懐疑心をも含み、自分の中に入れておくことも必要なのではないかと思う。完成はいつになるかわからないけれど、○○法というものに猪突猛進というか、素直に学ぶという姿勢だけではなく、ただパズルの一片を入れておく・・・熟させておくみたいな?

小さなことなのだ。例えば、「楽譜に忠実?クラシック音楽だもの。当然よね。ピアノと書いてあるから弱く弾かなきゃ」無批判に実行してしまうのではなく「ショパンの演奏って即興的要素もあった?えっ?ショパンを弾く時、そのことはどう自分の中で処理するんだろう?だって楽譜に忠実・・・なんでしょ?えっ?ヴァリアントって何?」このような疑問はパズルの一片なのだ。「弱く?それってもしかして相対的なことなのでは?だとしたら、どこの部分に対してのピアノ?書いてないし~」すべてパズルの一片なのだ。否定してしまわず、また安易に「これで納得!ショパンの演奏法」といった本に盲目的になってしまうのでもなく、ただ入れておく。そうすれば、ある時、ピアニストの言葉とか、なんでもないような情報、音楽以外の芸術などから、その疑問が自分なりに納得できる形でパズルの形になっていくかもしれない。

「成功するに決まっているじゃない?」この言葉、非常に「日本人的発想ではないな」と感じた。つまり西欧的反応だなと。これがパズルの一片になったわけだが、別に入れておいた別のパズルと重なった。もし、成功するに決まっているという言葉が、日本人や東洋人らしき人から発せられたら僕はどう感じただろうと。

西欧的、ここには西欧の歴史とか文化とか宗教とか、そのような多くの事柄が含まれている感じで、それが「我々とは違う」という感覚に結びついている。もしその言葉を東洋人が発したら、その人の国の背景というよりも、「その人という個人」の独自性に着目してしまうだろうと。国とか歴史、文化ではなく、その人個人という感覚?なぜ西洋人、金髪、青い目・・・みたいな人だと、全体的な観点になり、黒髪、黒い目の東洋人だと「個人」みたいな感覚を僕は持つのだろう?

おそらく、日本人と見た目の変わらない東洋人に関しては、無意識に日本人化してしまい、その上で、日本的感覚との比較をする。西洋人の場合は、最初から異人さん、違う所の人という感覚があり、その人個人というよりも、より大きな要因、文化とか、そのような観点で比較をする。それは僕が日本という島国で育った日本人だから・・・

パズルの一片として、見た目からは西欧人のように違いは判断できないけれど、韓国とか中国の演奏家は、どこか日本人の演奏家とは違うと感じていた。共通しているところもある。勤勉さとか緻密さのようなもの、いい意味で演奏に反映されている。でも日本の演奏家とは明らかに演奏そのものが違う。どちらが上手とか正しいとか、そのようなことではなく何かが違う・・・のだ。

喜怒哀楽、ラテン系、例えばイタリア人などは激しかったりする。リアルな友人関係から考えてそう感じる。もしイタリア~ン的反応を、韓国の人がしたら?やはり韓国人だからというよりは、その人、個人の個性として感じるような気がする。

もし日本から他国へ・・・という基準の発想を僕が捨てたら、パズルの一片はどのように完成されていくのだろう?また新たなパズルの一片が加わった。

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意外なヒットメイカー 

 

ブラームスって「渋い」とか「難渋」とか、そのようなイメージ?暗い・・・とか?インターメッツォなどの後期のピアノ曲に馴染んでいると、どこか深刻そうなブラームスが浮かんでくる。髭に埋もれたような、あの威厳たっぷりのブラームス。

当時のヨーロッパに「オリコン」みたいなチャートはなかったと思うのだが、ヒット曲のような扱いの曲はあったのではないかと思う。どこかキャッチーで、人々が思わず鼻歌として口ずさんでしまうような曲。そのような曲と厳粛なるブラームスって、どこか結びつかない。

そのブラームスに「日曜日」という小さな小さな歌曲がある。民謡調の曲だ。詞はドイツの民謡集、ヨハン・ルードヴィヒ・ウーラントという人が収集したテキストから採られている。曲はブラームスなのだが、彼らしくない(?)ほどのキャッチーなメロディーなのだ。

あの髭もじゃ厳粛なるブラームスがこの曲を書いている図を想像すると、自然に微笑んでしまいたくなるようだ。最も、イケメンの面影を残していた頃の作品なので、髭もじゃではなかったかもしれないが・・・

この曲、当時ヒットしたんじゃないかなぁ?

「日曜日」

もうまるまる一週間も
可愛いあの娘を見ていないんだ
ある日曜日
戸口のところで見かけたんだ
千倍も美しいあの娘
千倍も美しい恋人
今日あの娘のそばに居られたら・・・

もうまるまる一週間も
あの笑顔が離れない
ある日曜日
教会に入っていくのを見たんだ
千倍も美しいあの娘
千倍も美しい恋人
神様、お願いだ!
今日あの娘のそばに居られたら・・・

この燃え立つような一目惚れを声で表現できる人、それはヘルマン・プライでしょう。

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ひそかな涙 

 

メロディーが美しい作曲家、メロディーメイカーと呼べるような作曲家、誰だろう?まぁ、人によって異なるのかなと思うが、シューベルト、プッチーニ、モーツァルトとか?ショパンもそうかな?個人的にはレイナルド・アーンがメロディーメイカーとして好きだ。

反対に、このようなことを考えていて、あまり候補にならないのは誰だろう?近現代の作曲家に多い?バッハなどはどうだろう?

シューマンも、どちらかと言えば「美メロディー」という捉え方をされていないのかもしれない。シューマンのピアノ曲って、大雑把な印象だと、「絡み曲」という感じ?複雑に対旋律が絡んでいるというか、文学が絡みこんでいるというか?イメージとして「わぁ・・・素敵なメロディー」というのとは、ちょっと違うのかもしれない。長いトンネルの中で、もがいている感じ?そこが魅力なのかもしれないが。

絡み好き(?)なので、どうしても曲が複雑化、長大化してくる。シューマンがショパンよりもアマチュアに演奏されにくいのは、この長さということもあるのでは?むろん、難しさということもあるのだろうけれど。発表会とかサークル、アマチュアの演奏の場って、意外と時間制限がある。10~15分ぐらいの持ち時間で選曲ということに慣れてしまう。ショパンだったら、バラードだのスケルツォだの、10分程度で、内容盛りだくさん、曲としても完結できる曲が多いのだが、シューマンの場合、どうしても抜粋しなくてはならない。あとはリピートなしで弾くとか?シューマンの「パピヨン」を繰り返しカットで弾くのだったら、ショパンのバラードの方がお弾き得というか?「クライスレリアーナ」とか「交響的練習曲」を抜粋というのも、やり方によっては、サウンドとして唐突感を感じてしまうかもしれない。我々の世代はLP世代(LPという言葉自体が古い?)なので、やはり全曲を聴くことになれてしまっているところがある。

話は変わるけれど、曲を練習していて煮詰まってしまうことがある。その曲のことばかりに入り込み、その曲の作曲家の一面を追いがちになってしまう。練習過程ってそんなものなのかもしれないけれど、煮詰まったら解放してあげた方がいいような気がする。練習をやめるというのもいいけれど、練習している曲の作曲家の別の楽器の曲を聴くとかすると、とても気持ちがよかったりする。違う面から作曲家を感じられるというか?

シューマンの場合、声楽曲を聴くと解放されるかもしれない。1840年、シューマン30歳、この年が、まさに「歌の年」なのだ。集中的に傑作を生みだしている。ピアノ曲も傑作なのだが、なんというのだろう、シューマンの声楽曲は、長いトンネルを抜け、光に包まれた解放感を感じる。眩しいほどだ。裁判に勝ってクララと共に生きることができるという眩しさか?

シューマンの場合、やはりチクルスが多いように思うが、ケルナー歌曲集などは、別に全曲通さなくてもいいように思う。この「ひそかな涙」という歌曲、「えっ?シューマン?」と思ってしまうような美メロディーだ。同時に「ああ、シューマンですね?」とも感じる。

歌曲散歩をしてから、練習している曲に戻ってみるのも、たまにはいいのではないか?それで「私ピアノ上手くなってるぅ・・・」となるほど現実は甘くはないけれど、少なくとも弊害にはならないような?まぁ、ピアノを弾く時間は減るけれど。

「ひそかな涙」   詞:ユスティヌス・ケルナー   曲:シューマン

君は眠りから目覚めて
牧場をさまよっている
広々とした大地の上に
青く澄んだ大空が広がっている

君は惑いもなく眠っていた
その間、大空は朝方まで
限りない涙を降り注いでいた

静かな夜に人々は
悩みのために泣くくせに
朝が訪れると いつもこう思うのだ
心はいつも喜びに満ちている・・・と

歌っているのはペーター・シュライアー。1945年、空襲で瓦礫の山になったドレスデン、そこの聖十字架教会の聖歌隊で少年ペーターは歌っていた。まずなによりも聖歌隊、教会の復興というのがドイツらしいというか?その聖歌隊、ドレスデン十字架合唱団を80歳を過ぎたペーターが指揮しているというのも素敵な話だ。歌手生活を引退してから、彼は指揮者として専念している。

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