ピアノのある生活、ピアノと歩む人生

「ピアチェーレ」代表の私的ブログ

チマチマと大雑把、共存してみる・・・ 

 

楽譜を視覚的に読んでいく。「えっと、ドレミ・・・」そして読み取ったドレミを鍵盤で弾く。音が鳴ると嬉しい。憧れの曲が実際に音として再現されていく、興奮のひと時なのではないだろうか?でも実際にはドレミのつもりが、ドレレとかドレファと間違えてしまうことが多い。

部分練習ということになる。多くの場合、ゆっくり練習、リズム練習・・・ということになるのかもしれない。先生から「この部分を丁寧に練習しましょう」などと言われた時、大概は「ゆっくり」「反復」「リズムを変えて」とかになるのかもしれない。

僕の場合、反復とかテンポを落としてゆっくり・・・というよりは、足し算方式のような?説明が非常に難しいパッセージ練習ではある。「ピアニストは語る」(エリス・マック著 音楽之友社)という本の中でアルフレッド・ブレンデルが僕と同じ練習方法を紹介している。僕がブレンデルと同じ・・・という言い方の方がいいかな。

「私がエドワルト・シュトイアマンの教授法で高く買っている点のひとつなのですが、シュトイアマンは生徒にパッセージを速いテンポで練習させるのですが、パッセージを、もっと小さい部分に分けるのです。ある個所をある弾き方で弾きます。次に二番目の部分を弾いて、最初の部分につなげます。ただしテンポはゆるめないで。生徒がそのパッセージを弾き終えるまでこのやり方が続きます」

普通はドレミファソというパッセージを分けずに、ゆっくり弾いたり、リズムを変えたりするのではないだろうか?ドレミファソを細かく分ける。ド、ドレ、ドレミ、ドレミファ・・・のように。音そのものだけではなく、フレーズも同じように足し算方式で加えていく感じだろうか?テンポはゆっくりしないのがコツ。

かなりストイックな練習方法だと自分でも思う。何の曲を練習しているのかは、細部すぎて人は分からないはずだ。まぁ、練習を聴いている人はいないけれど。隙間時間で練習する人は、一度はこのシュトイアマン方式を試みてもいいかもしれない。結構チマチマと辛いです。

このチマチマとしたシュトイアマン方式とは真逆の練習方法、「ワーッと弾き」を最初の譜読みでする。普通は一つ一つの音を読んで、つなげていくのが譜読み。細部を読んで全体にしていくというか?これとは逆に最初に全体をワーッと弾いて、その後にチマチマとシュトイアマン方式に移る。

最初にワーッと・・・パッセージなどは弾けないです。当然。なのでなんちゃって弾きです。でも主要な旋律の流れと、ハーモニーを大雑把に捉えて弾いていく。これは耳コピに近いというよりは、3段譜をピアノで弾く感覚に近い。どこかを端折り、でも曲として成り立っている主要なものは拾って弾いていく。正確に印刷された音を弾いているわけではないので、なんちゃって弾きではあるのかもしれない。

オペラのアリアでも歌曲でもいいけれど、好きな曲を弾いてみる。ピアノ用にアレンジされた楽譜ではなく、声楽用の楽譜。そこにはピアノのパートと歌のパート、3段になっているはずだ。楽譜通りには弾けない。手は3本ないのだから。なので、どこかを適当に(?)省き、省けない音を拾い、ピアノソロの曲のように弾いていく。

これは全体を捉えるという意味で、とてもいい練習になると思う。この感覚でピアノ曲の譜読みする時にも応用してみる。印刷された音を拾う、読む・・・ではなく、全体を読むというか?これだと「一応弾けてから音楽的なことを考える」というよりは、全体構成、全体像をまず捉え、その後そうなるための細部磨きみたいな感覚で練習ができる。細部磨きはシュトイアマン方式に僕の場合はなる。

「イタリア古典歌曲集」みたいな楽譜を買ってくる。厳密にはアリアだけれど、そんなことはどうでもいい。「私を泣かせてください」というヘンデルの曲、シンプルながら3段譜になっているはずだ。これを「ウッフーン」というか、聴いた時の心の動きのまま弾いてみる。ドレミをドレレと弾いてしまっても気にせずに・・・

シュトイアマン方式と歌曲いきなり弾き方式、普通ではないのかもしれないが・・・

kaz




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しばらくぶりのリサイタル告知 

 

詳細は、このブログの「リサイタル 2018」というカテゴリーにある記事に書いてあるので、場所や時間、曲目などはそちらを参照して頂くとして、今年の6月30日にリサイタルを開催します。とてもこじんまりした会場なので、定員数までお客様を募らない予定です。定員いっぱいいっぱいだと、ピアノのすぐ前まで椅子がある状態になるし、キツキツという感じにもなるので、少し余裕を持ちたいと思っています。「このぐらいのお客様だったら客席もいい感じだな」と僕が思う人数を考えると、残席はあと10席程度かな・・・という感じです。

無料の演奏会だし、チケットもないので、当日来られない(忘れてしまう?)方もいるのかなと想定しています。なので、僕の理想定員に達しても、すぐには締め切らないのですが、席に限りがあるというのは事実ではあるので、ここに告知させて頂きました。

年度が替わってから、ブログにも、もう少し告知文章を書いていこうかと考えています。このブログのメールフォームから申し込んで頂くか、直接僕に会う機会のある方は、その旨お知らせ頂ければ大丈夫です。

さて、マリー・アントワネットだけれど、彼女の夫、ルイ16世の祖父、ルイ15世は、自分の子供たちの音楽教師にジョゼフ=二コラ=パンクラス・ロワイエという人を雇った。ルイ16世の父、ルイ・フェルディナンは、この人に音楽を習っていたということになる。つまり、ロワイエという人は、マリー・アントワネットや断頭の露と消えたルイ16世、彼らの親の世代が子どもの頃習っていた先生ということになる。ずばり1700年代の人。

「そうか、マリー・アントワネットの祖父母世代の音楽家というわけだな・・・」

ちょっとロワイエの鍵盤楽器作品を想像してみて頂きたい。どのような作品を残しているのだろう?どんな感じだろう?

1700年代、フランス宮廷音楽家、ヴェルサイユ宮殿、ルイ王朝、マリー・アントワネットのお祖父ちゃん世代・・・

もちろんスタインウェイのピアノなど存在していない時代・・・

重々しいドレスでも踊れるような、ゆったりとした曲?移動は馬車だった。新幹線などない時代。電話もスマホもないしね。なにもかもゆったりしていたのかな?

想像以上に闊達・・・そう感じた人は僕と同じ感想です。

kaz




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セピア色のガーリーな世界 

 

マリア・カラスのジュリアード音楽院でのマスタークラス、その講義録を読むと、次のような場面がある。「その旋律は一度聴衆は聴いているのです。同じ旋律を二回目に歌う時はヴァリアントをつけなさい」

生徒はジュリアード音楽院の学生なのだろう。その学生の教師は、偉大なるマリア・カラスのマスタークラスを自分の学生が受けるにあたり、入念な指導を行ったと想像する。なぜその声楽教師はヴァリアントなしで学生に歌わせたのだろう?

「そんな大事なこと、学生の感性に任せられないじゃない?」ということだったのだろうか?

ピティナの子ども(?)コンクール、4期時代課題というのは当然として、そうなると子どもにバロック期の作品を演奏させることになる。そこで問題となるであろうことは、やはりヴァリアント。昔、実際にピティナのコンクールを聴いた経験、そして最近動画でチェックして感じたのは、ピティナ側は、どうもヴァリアントを推奨しているようだ。実際にヴァリアント付きで演奏している子どもの演奏を聴いて感じるのは、「そのヴァリアントは子どもの自発的なものなのだろうか?」ということ。演奏者が異なっても同じヴァリアントが登場する場合、それは偶然なのかもしれないが、もしかしたら教師が指導している可能性もある。「こう弾きなさい」とヴァリアントを楽譜に書いてしまったり、決めてしまうのは、ヴァリアントの、もともとの成り立ちを考えると妙ではある。もし教師側が決めてしまっているのだったらという仮定の話だが・・・

クラシック音楽の世界で、ジャズのアドリブに似ているのが、このヴァリアントではないだろうか?つまりクラシック畑の人が苦手としている即興的要素。

バロック期、つまり昔・・・ですね?鬘族の作曲家たち、重々しいドレス、宮廷、教会、キリスト教・・・みたいなイメージ?「バッハはペダルをつけてはいけません」などと指導するピアノ教師、現在では少ないのだろうが、おそらくその理由は「当時にはピアノという楽器は一般的ではなく、バッハはチェンバロを想定して曲を書いた。チェンバロには現在のピアノのようなペダルはなかったのです」というものではないだろうか?「だったら最初からチェンバロで弾けばいいじゃ~ん?」などと、ひねくれた僕などは思ってしまうが、素直に受け取ってしまう生徒もいるかもしれない。

セピアの色が濃くなるほど、実はクラシック作品というものは、即興的要素が強かったのではないだろうか?ジャズみたいな?ジャズではないけど。ザハリヒな風潮は、作曲と演奏の分離が見られる最近のものだったら?演奏者個人の内なるもの、そんなものではなく偉大なる作品そのものが感じられる演奏がいいのだ・・・みたいな?作曲と演奏の完全分業の前の時代、長いクラシックの歴史、もしかしたら即興性が重んじられた時代だったと考えてみたらどうだろう?モーツァルトのコンチェルト、印刷された音符しか弾かないなんて演奏者、もしかしたら異端だったのかも?ショパンのワルツ、印刷された音符のみで演奏したら「なぜ何もしないの?」みたいな時代?

ヴィヴァルディの作品なんて、ロックのような鼓動を感じたりする。僕がおかしいのか?

セピア色のバロック時代、もしかしたら現代の我々が想像する以上に闊達でポップでガーリーな世界だったとしたら?

そんなことを考えていて浮かんだのがソフィア・コッポラ監督のこの映画。現代人が想像する以上に、マリー・アントワネット、ルイ王朝、ヴェルサイユのいう世界は闊達であったのかもしれない。固い儀式の裏でポップで人間的な世界。それは即興性とアドリブの世界・・・

「当時の宮廷にはマノロ・ブラニクの靴なんて存在していません。あり得ません」史実的にはそうだろうが・・・

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本番翌日の呟き 

 

緊張しない法則などはないということを再確認した。緊張はするもの。曲がどうであれ、過去にその曲を弾いたことがあろうと、なかろうと、それまでの練習量がどうであろうと緊張はする。

細部ばかりではなく、全体を・・・このスタンスで弾いたつもりだけれど、やはり自分のミスは気になる。凄く気になる。弾き終わった直後、こう思った。「今度はミスなく弾きたい」と。これを繰り返すのだろうか?ミスなく人前で弾けることなんかないだろう。そんな想いを抱えながらピアノライフが続き、そして終わるのか?「今度こそミスなく・・・」と願い続けるピアノライフ?

「まっ、ミスなんか気にせず細部なんかいいから楽しく練習いたしましょう」これだど際限なく自分が底に落ちていく気がする。

ジャズを弾いた人が複数いた。ベースに合わせ、自由自在に弾いていく。むろん楽譜は見ていない。絶対に直前まで楽譜とにらめっこして「忘れたらどうしよう・・・」などというのとは違っていたはずだ。楽譜もない?アドリブの部分などはそうだろう。メロディーとコードが頭に入っていれば、ジャズの人は弾けるのだろう。

「楽しそう・・・うらやましい・・・」

クラシックの人だけ?直前まで胃が痛くなるような思いをして、忘れたらどうしようみたいな?弾き終わったら「ああ、ミスしちゃった・・・」とどこかで自分を責める。クラシックって辛くない???

楽しそうに弾きたいと思った。技巧的な曲を「難しそうね」とか「大変そうね」と聴き手が感じる、それは避けたいと。自分はどうであれ、「楽しそうね」と感じてもらいたい。実際には、弾いている間「こんなはずでは」「家では弾けたのに」とか、そんなことばかり感じながら弾いている自分がいる。実に楽しくない。クラシックだけそうなの?

ジャズのアドリブの場合、弾く直前にサウンドが頭の中に鳴るのだろう。中から外・・・というイメージ?法則(コード進行とか)はあるのだろうが、クラシックの暗譜→再現・・・のような感覚とは異なるはずだ。

直前にサウンドが鳴る?ジャズではなくても、頭の中にサウンドが鳴れば、クラシックの人もジャズ感覚(?)で弾けるのでは?例えば「チューリップ」とか「メリーさんの羊」のような曲、クラシックの人でもいきなり弾けるのでは?別に五線譜に音符を書いて譜面台を立てなくても弾けるのでは?これって頭の中にサウンドが鳴るからでは???

子どもの頃、「カーネギーホール」という映画を観た。ストーリーなどは覚えていないが、当時カーネギーホールで活躍していた往年の名演奏家が出演し、演奏していた。むろん映画なので省略して演奏していたけれど、かなりの時間を演奏そのものに割いていたように記憶している。

ピアニストではアルトゥール・ルービンシュタインが出演し、「英雄ポロネーズ」と「火祭りの踊り」を演奏していた。英雄ポロネーズは、さすがに一部カットで演奏されていたように思う。この演奏、当時の僕には衝撃的ですらあった。何度も観たし、レコードでルービンシュタインの演奏を、それこそ擦り切れるまで聴いた。

元昭和のピアノ男子であれば、おそらく「男のくせにピアノかよ?」経験はあるのではないだろうか?僕にとってルービンシュタインの演奏、演奏姿は「ピアノって男のものだぜ」みたいなことを感じさせるに充分だったのだ。まさしく元少年の英雄になったのだ。

映画の中で聴いた曲、それこそ覚えるまで聴いた。頭の中でサウンドはなる。大人になってピアノを再開して知った曲、多くの曲はサウンドとしては鳴らない。スクリャービンのソナタとかシューマンのクライスレリアーナとか・・・

でも子どもの頃、繰り返し聴いた曲はサウンドがなる。弾いたことはなくても、楽譜を開いたことはなくても・・・

ジャズ感覚でクラシックの、サウンドとして鳴る曲を弾いてみたらどうなるだろう?サウンドとしては鳴るけれど、鍵盤の位置関係で混乱するかもしれない。楽譜を読んだことはないのだから、完璧に耳覚えとなる。つまり耳コピ?正確には弾けないのだろう。でもジャズ感覚、アドリブ感覚で弾いてみたら?アドリブではないけれど、頭の中に鳴るサウンドをそのまま鍵盤に託してみたら?

そして弾いてみた。結果は昨日その場にいた人だけが知っている・・・

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本番当日の呟き 

 

僕の演奏をリアルに知る人の中には、とても麗しい誤解をする人もいる。「kazさんて緊張とかしないんですか?」緊張しますね。していないように見えるのかもしれないが、緊張しています。本番当日の朝など、4時に目覚めてしまうほどの小心者なのだ。手も震えるし、緊張しますねぇ。

新しい曲を譜読みする時、まずは全体をワーッと弾く。この時は「なんちゃって弾き」状態である。細かなパッセージなど目茶目茶である。感覚としては3段譜をピアノで弾く感じだろうか?むろん全部の音は手は2本なわけだから弾けない、端折るわけだ。でも和音構成音などは、瞬時に把握し、メロディーも拾う。そしてワーッと・・・・

「そんなの変!」と言われる。多くの人は、譜読みというのは、印刷された一つ一つの音符を視覚的に読み、鍵盤に移し音にしていくようだ。その方法が一般的であるとすれば、僕の譜読みは「普通でない」のかもしれないが、部分練習は多くの人よりも徹底していると思う。なぜならピアノの練習は隙間時間を活用しているので、全体を通したらそれだけで終わってしまうから。おそらく、通して弾くというのは、譜読み段階、あとは本番・・・というのが僕の場合普通だった。

部分練習はいいことだ・・・みたいな世の中の風潮もあり(?)僕もそこに便乗していたように思う。出勤前にちょっと練習・・・みたいなパターンが多いので、部分練習しかできないということもある。譜読みから本番まで、総合練習時間は、おそらく人よりも僕は少ない。世のピアノの先生が延べの練習時間を知ったら卒倒してしまうのではないか?それぐらいに少ない。でも僕の生活の中心はピアノではない、仕事である。あとは生活。余りの時間をピアノに使うしかない。

練習時間が少ない、そのコンプレックスが部分練習に僕を走らせるということもあるのだと思う。

本番直前、自分の出番の直前に、それまでの「部分練習感覚」から、いきなり「音楽的にウッフ~ン」と自分を変身させることはできない。細部→全体という練習時の自分を引きずってしまう・・・

部分練習を徹底すると、どうしても細部→全体というイメージになる。人の演奏は細部ではなく全体を聴く。だから細かなミスは気にならないのだ。惹かれるか、そうではないか・・・で聴いたりする。つまり全体→細部という感覚で人の演奏は聴くのだ。

自分の演奏、おそらく本番では細部→全体という感覚を残したまま弾いてしまう。部分練習感覚が本番でも残っているのだ。なので細かなミスが異様に気になるのだ。

出掛けるまでに数時間ある。他人感覚で全体をチェックしてみよう。「あっ、ここ弾けない」ではなく全体を。人は全体を聴くしね。

アルフィー・ボーの声、安定性、誰もが上手いっ・・・と感じる歌唱、譜読み段階からそこを目指した。部分練習でも流麗さを目指した。部分練習を重ねるうち、アラン・ジャクソンのような「噛みしめる味」のようなニュアンスを忘れていた。初めて曲に出逢った時には感じていた何かを部分練習を重ねるうちに忘れていた。

今日はショパンを弾くので、アルフィー・ボー+アラン・ジャクソン、そして最近知った歌手なのだが、このピーター・ホーレンスの歌唱をプラスした感じで、細部だけではなく、全体を意識して練習してみようと思う。

自分が他人だったら、この演奏どう思う???この感覚。全体→細部・・・という本番法則。

kaz




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