ピアノのある生活、ピアノと歩む人生

「ピアチェーレ」代表の私的ブログ

本番前夜の呟き 

 

明日はサークルの練習会。正確には新年会だけれど、まぁ、練習会だ。一応人前で暗譜で曲を演奏するので、僕にとっては本番前夜ということになる。

去年の練習会で感じたことがある。家で練習している時と同じように弾くために練習会に参加しているのか?練習の時の70パーセントの出来とか、そのようなことを感じるために、わざわざ希望休を取って練習会に参加しているのか?

大きく首を振りたい感じだ。そうではないと。でも僕だけではないと思うけれど、日頃の練習は大切だと思っている。チマチマと僕もパッセージ練習はする。そして本番で練習の時できていたことができないと、やはり落ち込んだりはする。

日頃の練習に、「音楽的に弾ければいいのよ」「ウッフ~ンと弾ければいいじゃない?」「ミスなんて関係ないんじゃない?」みたいなことを持ち込んでしまうと失敗するような気がするし、それはそれで何かから逃げているような気もする。

なので練習する。でも「練習の時と同じように・・・」と本番直前に願うのは何か違うのではないかと・・・

解明できない謎がある。人のミスは気にならない。「いくつミスしたかしら?」なんて聴き方はしない。でも自分のミスは非常に気になる。その瞬間何かが崩壊したかのような動揺だ。これは何故なのだろう?人のミスは気にならないのだったら、自分のミスも他人はそれほど気にしていないはず。でも本番では「ミスは目立たないのだから・・・」とは思えない。

アルフィー・ボーしか目指していない自分が本番前夜にいる。

アルフィー・ボー・・・元自動車整備士見習いの歌手。「あなた、整備士ではなく歌手でしょ?」と言いたくなるような声だ。実際にそのようなことがあったので、歌手デビューした。理想の声、歌い方ではないかと僕は思う。ちなみに、僕はこの人好きです。

「歌が上手い人」という歌い方、多くの人が、この人の歌唱からそのような要素を感じるだろうと思う。上手い人典型の歌唱と言うのかな?

アルフィー・ボーがいいとか、よくないということではなく、本番前夜の僕は、ある歌手を忘れている。アルフィー・ボーしか見えていない。

続く

kaz




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価値観 

 

昨日はバレンタインデー。日本だと女性が男性に(義理?)チョコレートを送る風習があるけれど、米国では男女のカップルであれば、男性が女性に花束やバレンタインディナーなどのプレゼントを送るイベント(?)であったように記憶している。少なくとも僕が滞在していた東海岸はそうだったような?日本のクリスマスイヴのような盛り上がりに似ているだろうか?

地域によって風習、習慣、考えかたが異なるというのは非常に楽しい。一つの価値観の中で、自分はこうだ、ああだ・・・と悩んでいる必要がなくなる。

練習に行き詰り、「ああ、私ったらダメなんだわ」「才能ないんだわ」と思う。でもこれは一つの価値観。「ダメということを感じている自分は進歩できるわ」という考え方も一つの価値観。どうせ悩むのだったら人生楽しく過ごしたい。

旅客機に乗ると、客室乗務員がセーフティ・デモを行う。救命具とか避難通路の説明とか。日本系のキャリアだと、そのような時にも乗務員は完璧な、かつ上品な笑顔を絶やさない。さすが「おもてなしJAPAN」とさえ感じる。でも、あのデモンストレーションをきちんと見ている人、あるいはパンフレットを熟読している人っているのだろうか?

そのようなことが必要になるかも・・・と思ったら飛行機など乗れないのかもしれないが・・・

JALとかANAの「微笑みデモ」も一つの価値観。でも違う価値観があるって楽しい。どちらがどう・・・ということは別にして、異なるものがあるということが楽しい。

あるアメリカの航空会社のセーフティ・デモ。これって・・・

この乗務員の個人的考えで、このようなデモをしているのではなく、会社の方針みたいだ。会社としても「従業員に必要なもの、それはユーモアのセンスだ」というスタンスらしい。ちなみにサウスウェスト航空という会社です。

「この人たちに(この航空機に)自分の命を託していいものだろうか?」これも一つの価値観。「だって楽しいじゃない?」というのも一つの価値観。

色々ある・・・それが楽しいんじゃないかな?

kaz




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今さらの追悼 ティム・ハウザー 2 

 

マンハッタン・トランスファー、彼らのサウンドはジャズ?それともポップス?このあたりが明確でないところが彼らの魅力だったような気がする。「音楽、それじゃいけないのかい?」みたいな?

それでも、ドゥーワップ調というのだろうか、ジャズの曲をヴォーカライズした曲に彼らの真骨頂があったような気はしている。例えばこの「フォーブラザーズ」のような曲。

特にティム・ハウザーは、この種の曲だと生き生きとしていたような?実に楽しそうで、いかにも「音楽をしている」という感じだ。

これはウディ・ハーマンの、かつてのヒット曲だったのでは?

歌を器楽に、それもいいが、逆も非常に面白い。

kaz




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今さらの追悼 ティム・ハウザー 

 

いわゆる「洋楽」と言われるジャンルも好きだ。クラシックしか聴かないということはない。でもティム・ハウザーが亡くなっていたことは知らなかった。ティム・ハウザー・・・マンハッタン・トランスファーのリーダーだった人。スキンヘッドの人・・・と言った方が分かりやすいかもしれない。

洋楽、それは僕の子ども時代、青年時代の西洋への、とくにアメリカへの憧れ、そのものだったのだ。多くの若者と同様、僕もニューヨークに憧れた。刺激的そうで、自由そうで、エネルギーに溢れていそうで・・・

懐かしのノースウェスト機で初めてニューヨークを訪れた時、微かにマンハッタン・トランスファーの曲の数々が頭の中に鳴り響いた。「ああ、アメリカにいるんだ」そう感じた。

そう、彼らのサウンドはアメリカへの憧れそのものだったのだ。

ティムはマンハッタン・トランスファーの創始者であり、リーダーであったけれど、あまりソロを歌い全面に出ることはなかったように思う。支えの人という印象が強い。影でジャニス、シェリル、そしてアランを支えた。

最初はメンバーの入れ替わりも激しく、一時はグループも解散してしまった。その間、ティムはタクシーの運転手をしていたらしい。再結成した時のメンバー、ティムにとっては運命的出会いだったのかもしれない。

ティムの死に対して、とても衝撃が大きいのは自分でも意外だ。4年も彼の訃報を知らなかったからだろうか?自分の青春の憧れが消えてしまったからだろうか?なんだか泣きそうになるほど哀しい。

kaz




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抑揚と歌 

 

ショパンのノクターンOp.9-2を弾くとする。ややもすると細かなパッセージばかり練習してしまう。それが練習と疑問にも思わず。最初のメロディーのシ♭ーソ・・・「ソの方が高い音、シ♭よりも強くして」ソの音がバシン。左手の最初のミの♭、これもバシンという音。音は弾けている。でも・・・

「まっ、一応弾けてから音楽のことは考えましょ」本来まずやるべきことは、片手でシ♭ーソを素敵に弾けるか・・・では?一応音だけ弾けてから何をするの?もしかしてそこは強制的自立を先生から促されていたりしない?自分のどこかで「どうすればいいのかな?」と常に悩みながら・・・

一応弾けるようになってからではなく、最初にやるべきことを、実は後回しにしていたりして。フィンガリングを決めるとか、音配置や指配置をまず馴染ませる、だから最初は表現とか抜きで弾いてみる。これも「まずは」ではなく、表現と同時に進めた方が効率的ではないかと思う。フィンガリングも、ただ「弾きやすい」ではなく、そこには表現というもののためのフィンガリング決めという面もあるのでは?

もしかして、バイエルの最初から、それは必要だったのかもしれない。ただ音を弾くということで、何かがスルーされてきてしまった・・・

音の長さや高さを、ただ読んで鍵盤に移す・・・ではなく、イタリア語の抑揚は印刷された文字群には記されていないように、楽譜もその部分は記されていなかったとしたら?イタリア語をロボットのように発音して「なんだかな・・・」と感じるのと同じようなことを、ピアノでもやっているのかもしれない。

歌を聴いてみたらいいような気がする。ピアノの人って何故かピアノばかり聴く傾向はあるかもしれない。別にオペラやクラシックの歌曲に限定しなくてもいいように思う。目的は一般教養を身につけるためではなく、歌と言葉の流れから抑揚を感じるためなのだから。

歌にはピアノにはない歌詞、言葉が存在する。話し言葉の抑揚と似ているというか?さらに感情というものが、言葉と共に、音の高低、長短に凝縮されている。本当はピアノもそうなのだと思うけれど。

イタリア語の抑揚、そんなことを考えていて、ルーチョ・ダッラの「カルーソー」を思い浮かべた。ルーチョ・ダッラはクラシックのベルカント唱法で歌っているわけではない。ポップス系、ナポレターナのカンタウトーレ系の人だ。ベルカント的美声というのとは異なる声で歌っている。また「カルーソー」という歌、サビの部分は、いかにもイタリア~ンな感じだが、結構同じ音が連続した語りのような部分が多い。そこの部分が、この人はとても上手いような気がする。そのような意味で「印刷されていない抑揚」というものを感じやすいのだと思う。

感情を乗せる、音楽的に演奏する、この部分が後回し、もしくは「私には無理」とスルーされがち。ルーチョ・ダッラはカンタウトーレなので、この「カルーソー」も自作自演ということになる。往年の歌劇王カルーソーを歌っている。

自作自演なので、想いというものが直に伝わってくるのかもしれない。実際、この「カルーソー」にはエピソードもある。ルーチョ・ダッラがソレントに滞在していた時、自分の船(!)が故障してソレントにしばらく滞在しなければならなくなった。彼が滞在したホテルの部屋、実は、かつてカルーソーが死の直前、療養中に滞在していた部屋だったのだ。カルーソーは死の直前まで若者たちに歌のレッスンをその部屋でしていたらしい。その部屋からは海が見える。カルーソーが見た光景をルーチョ・ダッラも見た。そして「カルーソー」という名曲が生まれた。カルーソーはナポリの貧民窟で生まれた。アメリカで大成功を収め、その地で歌劇王と呼ばれた。咽頭の手術をし、血を吐きながら療養のため祖国に戻ってきた。

「この海は、今見えている月はカルーソーもかつて見たものなのだ・・・」


「カルーソー」  曲:詞  ルーチョ・ダッラ

ソレント湾に面したテラス 彼は海の上の灯りを見た
彼はさめざめと泣いた後 咳払いで声をととのえ歌を歌い始めた

アメリカでの公演の日々について考えながら
ただ漁師の灯りと船の白い波があるだけだった

彼はピアノから湧き出てくる音楽に苦痛を感じた
でも雲から現れた月を見た時、彼には死も心地よく思えた

彼はスクリューの波跡のような過ぎた人生を想う
それは紛れもなく終わりのある人生
でも彼はもうあまり考えなかった
そう、何やら幸せな気分になって
好きな歌をまた歌い始めた

「お前が好きだ とても好き とてもとても・・・分かるだろう?
 お前はその熱い血で こうして鎖を解き放ってくれる。分かるだろう?」





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