ピアノのある生活、ピアノと歩む人生

「ピアチェーレ」代表の私的ブログ

鉄の中のナイチンゲール 

 

「僕が育った街には色というものがなかった。モノクロの写真のようにね」Hがそう言ったことがある。僕が育った街、つまりクラクフの街のことを言ったのであろう。後年、実際にクラクフの街を歩いてみた感想としては、Hの言葉とは異なり、色彩が欠けているとは思わなかった。いかにも古都という印象ではあったけれど。クラクフ近郊には、あの悪名高きアウシュヴィッツ・ビルケナウ収容所跡がある。少し前のテレビのニュースで、この場所をツアーなどで訪れた日本人観光客が過去最高になったと知った。現在は日本人のガイドもいるらしい。決して物見遊山気分で訪れるような場所ではないと思うが、ポーランドは民主主義の国になったんだなと、僕は感じたものだ。

Hの「クラクフには色彩がない」という言葉、それは収容所の存在を意味したのではないかと、その時は感じたものだが、考えてみれば、Hは社会主義国ポーランド、社会主義国のクラクフで生まれ、育ったのだ。モノクロの写真という言葉は、社会主義国という意味でもあったのではなかったか?

日本がバブリーな頃、世界の不動産やら絵画やらを買収しまくり、金満国として日本という国が知られていた頃、つまり1980年代の終わりか、1990年代の初めだったと思うが、テレビのニュースでポーランドのある風景が流れた。自由を求める大衆と、それを阻む国家権力、軍隊という風景だったと思う。ワルシャワ・・・とアナウンサーは解説していた記憶がある。人々の罵声、銃声、そのような音が乱れ飛ぶ中、建物からビラが舞い散る。受け取ろうとする人々、追い払う軍隊・・・

冬だったのだろうか、吹雪が舞っていた。映像で見るワルシャワには色がなかったと感じた。モノクロの写真のように・・・

「彼女はワルシャワのナイチンゲールと呼ばれていてね。どうだい、美しい人だろう?」祖国に関しては、どこか押し黙ってしまうような、沈黙を守るところがあったHにしては、無邪気なまでのポーランド自慢だったので、そのワルシャワのナイチンゲール、ボグナ・ソコルスカの歌声は強く印象に残っている。おそらくポーランドから持ってきたであろう、古いレコードのジャケットには、往年時代の女優のような女性の姿があった。「美人だね?」「そうだろ???」

ソコルスカは、Hが生まれる頃、Hの父親世代が聴いた歌手なのではないか?世代を超えて愛されている歌手なのであろう。色彩のない社会主義国ポーランドに、彼女の歌声が流れたのだ。強烈な印象をポーランドの人々に残したのではないだろうか?

ワルシャワのナイチンゲールを聴いている時だけは、人々は自由を得て、空を飛翔している気分になったのではないだろうか?

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愛国者として、ピアニストとして・・・ 

 

中村紘子著の「ピアニストという蛮族がいる」(文藝春秋)に、鍵盤のパトリオットと題して、パデレフスキに関して、まるまる一章が割かれている。現在、パデレフスキはどのような位置づけにいるのだろうと、ふと思った。まずはピアノ弾きだとショパン全集、つまりパデレフスキ版で有名なのではないだろうか?そのパデレフスキ版も「今はエキエル版よね?」みたいに、やや冷たい視線が注がれたりしているのかもしれない。作曲者としては、もうひたすら「メヌエット」だけが有名で、それもピアノ中級者(?)が時折ピアノ発表会で演奏することはあっても、プロのピアニストがリサイタルでパデレフスキの曲を演奏することなど、まずない・・・

ちょっともったいないというか、おかしいのでは・・・という気持ちが、今回のピアチェーレの演奏会でパデレフスキ作品を演奏してみようと決心した理由だ。

ピアニストとしてのパデレフスキ、これは昔から、つまりSP盤、蓄音機の時代から日本でも有名だったと思う。たしかにロマンティックな演奏というか、黄金時代の演奏という気がする。でも大衆のパデレフスキに対しての人気は、他のピアニストを圧倒しているところがある。当時、アメリカは亡命音楽家たちのメッカ(?)で、巨匠たちの演奏が溢れていたところがあるが、なぜパデレフスキの人気が他を圧していたのだろう?この部分は演奏を聴いても釈然としないものが残っていた。「たしかに素晴らしい。でも他にも素晴らしいピアニストはいる。なぜパデレフスキだけが異常な人気ぶりだったのだろう?」と。

前出の本から部分引用してみると、「彼の生活ぶりは王侯貴族にも似ていた。カリフォルニアに牧場を所有し、パリとロンドンに家を持ち、ジュネーブ湖畔に城館を構えた。自家用の鉄道車輌に乗り、練習用の二台のピアノ、秘書、執事、医師、専用マッサージ師、シェフ、調律師、そして家族、召使いたちを引き連れての大名行列は、それ自体がまた人気の的となった」こうもある。「どこでも聴衆は、その大部分が女性であった。彼女たちはパデレフスキがステージに登場すると一種の集団ヒステリーを起こし、ステージめがけて殺到して我先によじ登ろうとした」

現代のロック歌手以上の盛り上がりではないか?「彼の燃えるような金髪の巻き毛は、光が当たると彼のロマンティックな顔を後光のように包んだ」ともある。すべてがレベル違い、けた違いの人気ぶりではないか?

ロマンティックな顔立ちかどうかは、主観的なものも含まれるので、この動画で判断するしかないが、たしかにイケメンではあったのかもしれない。でも異常なまでの人気は、彼がポーランド人であった、つまり征服される側の国の人間であったということも関係しているのではないか?人気原因はともかく、少なくともピアニストとしてのパデレフスキに、ある種の気概、「二ェ・ダムチェ!」なるものが植え付けられていたのではないかと・・・

パデレフスキ、3歳の時。父親がある蜂起に参加したとして逮捕された。150人ほどの騎兵、ロシアの官憲が父親の有罪立証にやっきとなった。家中のものがひっくり返された。3歳のパデレフスキは、幼いながらも異様な事態に、父親に大事が起こったのだと感じた。泣きながらロシア兵にたずねた。「お父さんをどうするの?なぜ連れていってしまうの?すぐに帰してくれるの?」

ロシア兵は答える代わりに、3歳のパデレフスキをムチで叩いたのだそうだ。3歳の子どもの肌はムチで裂け、血で溢れた・・・

この時の屈辱感が、後の「二ェ・ダムチェ」そしてポーランド人、被征服民族としての誇りを植え付けたのではないか?

1939年、ナチス・ドイツはポーランドに突入、わずか一か月後にワルシャワ陥落・・・当時79歳だったパデレフスキの胸中はいかなるものであったか。1941年、6月、ニューヨークで肺炎のために死去する。「餓えているポーランド人民のための救済コンサート」を行っており、その無理がたたったともされている。時の大統領でパデレフスキの親友でもあったフランクリン・ルーズベルトの命令によって、500名の米軍士官と音楽隊がパデレフスキの遺体に付き添って五番街を行進したという。「ポーランドが自由の国になるまでは帰国せず」というパデレフスキの遺言に従い、遺体はワシントンのアーリントン墓地に埋葬された。米国最高の礼をもってとり行われたという。19発の礼砲と共にポーランドの元首相、ピアニスト、パデレフスキは異国の地に永眠することとなった。

ソビエト崩壊、ベルリンの壁崩壊、東欧は民主化の道を突き進んだ。ポーランドも例外ではなかった。1992年、ポーランドのレフ・ワレサ大統領と米国のジョージ・ブッシュ大統領列席のもと、パデレフスキの遺灰はアーリントン墓地からワルシャワの聖ヨハネ聖堂の地下霊廟に移された。

ポーランドは自由の国になった・・・

幾百年待ち望んだのだろう、幾多の人が待ち望んだのだろう・・・ポーランドは歴史のある若い国でもある。

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ピエロギ対決 

 

ポーランド餃子、正式名を「ピエロギ」と言う。Hは「ピロギ」と発音していたと記憶している。ピエロギそのものは、ポーランド独自の食べ物というよりは、おそらく東欧諸国を中心に似たような料理はあるのだと思う。アメリカにもピエロギは普及していたように思う。アメリカは移民の国だから、それぞれのピエロギが存在していたのだろう。

ポーランドでは(Hが主張するところによれば)中にジャガイモを入れるのが一般的らしい。Hがポーランドのピエロギを作り、僕が日本の餃子を作り、料理対決(?)をしたことがある。餃子を日本の料理としていいものかどうか、そこは判断に迷ったが、まあ、いいとした。さすがに日系のスーパーで味の素の「冷凍餃子」を買ってくるのは、日本人のプライド(?)として許さなかったので、近所の韓国人経営の商店で材料を買ってきた。

餃子の皮から手作りする主婦って日本にはどれくらいいるのだろう?普通は市販の餃子の皮を使用するのではないだろうか?「日本にはそんなものもあるのか?そのようなものまで出来合いのものを使うのか?」とHはやや憮然とした表情をする。ポーランドの主婦は皮も粉を練って作るらしい。

包んで焼いて、煮て、揚げて・・・とピエロギも餃子も同じだ。でも味は異なる。ラー油と酢、あるいはポン酢で食べる日本の餃子の方が馴染みがあるなぁ、そう感じたが、もちろんHには言わなかった。餃子は皮の襞は手で作るものだと思ったが、ピエロギの襞はフォークで作る。随分と大雑把というか、大陸的だと感じたが、たしかに皮が厚いのでそうなるのだろう。

ピエロギもポン酢で食べると非常に美味。サワークリームのようなものにつけるんだね、それがどうも・・・

Hはポン酢が苦手だったようだ。その時まで、外人さんは日本の醤油には誰でも「ビューティフル!」と絶賛すると思っていたので、ポン酢の味も賞賛されると思い込んでいたのだが、そうでもなかったようだ。

たかが餃子なのだけれど、世界共通の同じようなところもあり、また地域の独自性のようなものもあり、楽しい想い出ではある。

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二ェ・ダムチェ! 

 

約2か月後、ピアチェーレの演奏会があります。11月18日、場所は例年と同じ、雑司ヶ谷音楽堂。無料の演奏会だけれど、整理券が必要となります。申し込みは来月の1日から、ピアチェーレのホームページのメールフォームから申し込んで頂きたいです。ピアチェーレからメールでPDFとして整理券が返信されるので、プリントアウトして当日持参して頂く形となります。直接僕に連絡頂いても大丈夫です。その場合は受付に整理券を用意しておきますので、当日お名前を仰って頂くようになります。こちらは現在、随時受付中です。

僕の演奏曲はショパン中心。

パデレフスキのメロディー、ノクターン、ショパンのバラード第1番、アンダンテ・スピアナート付きのポロネーズ。ショパンというよりは、僕の中でのテーマは「ポーランド」という感じだろうか?

ポーランド、一度だけ旅行したことがある。「予想よりも近代的な国だな」というのが正直な感想だった。僕の中では、ポーランドという国は、大国に翻弄され続けた悲劇の国というイメージがあった。1980年、当時社会主義国だったポーランドの港町、グダニスクからある運動が起こった。ソ連の圧力に労働者レベルで対抗するソルダルノシチ、いわゆる「連帯」という運動だ。若かった僕は日本で、ワレサ議長とか戒厳令とか、ドキドキしながらテレビで見守っていたものだ。そして世の中の不合理というものを感じていた。

その後、アメリカに留学した時、ある一人のポーランド人と知り合った。ルームメイトだったHという人物は、このブログでも度々登場しているように思う。どこか仙人のような人だったように思う。祖国に愛着を感じ、同時に絶望していたところがあったように思う。「あの国では人間として生きることができない」・・・そう言っていた。

「二ェ・ダムチェ」・・・Hがよく言っていた言葉だ。日本語だと「決して克服するものか」という意味だろうか?Hとの関わり、侵略の歴史でもあったポーランドの歴史、そのようなものから、あるイメージがポーランドという国に対して僕の中で形作られていたのだと思う。なので、暢気にポーランド餃子などを食しながら、「ポーランドって意外と発展しているのねぇ・・・」などと僕は感じたのだろうと思う。

ショパンの曲って、どこか「お素敵」な感じがする。パリに住み、半分はフランス人の血が流れていた。でも半分はポーランドの血が流れていた。この部分が生涯、マズルカやポロネーズを書かせたのかもしれない。ショパンが生まれたのは1810年。実はこの時期、ポーランドという国は消滅していた。世界地図にはポーランドという国は存在していなかった。「この領土は我々が・・・」「ではポーランドのあそこは我々が貰って・・・」大国にいいようにされていた期間が123年間も続いた。1795年から1918年の123年。

100年以上もの支配後、1919年、ポーランドは独立し、あるピアニストがポーランドの首相になった。また外務大臣も兼任した。パデレフスキ。いまだかつてピアニストから政治家、それも一国の首相にまでなった人物などいただろうか?

パデレフスキとショパン、おそらく「二ェ・ダムチェ」という精神を持ち続けた人たちであったのだろう。また、後世、ワルシャワの街で、クラクフの街で、空襲の中、爆撃の中、蓄音機でショパンを聴きながら「二ェ・ダムチェ」と心で叫んでいた無数のポーランド人たちもいたのだろう。

ピアチェーレの演奏会では、僕なりの「二ェ・ダムチェ」を表出できたらいいなと思う。

ポーランド・・・「平原の国」という意味なのだそうだ。

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いつでも、どこでも、何があっても・・・ 

 

まずは楽譜を読め、すべて楽譜に書いてある。自分の内側の感情など関係ないのだ、まずは楽譜に忠実に・・・

忠実に弾けば、忠実に楽譜を読めば、それは音楽になる。理屈とすればそうなのだろうが、では人によって演奏が異なるというのは何故だろう?譜読みの浅さ、深さの違い・・・ということもあるのだろうが、ではコルトーとミケランジェリでは同じ曲でも演奏は異なるのはどうしてだろう?ミルシテインとシェリングでも演奏は異なる。その人ならではの魅力というものはある。なぜ皆同じにはならないのだろう?同じ楽譜なのに。同じ音符の連なりを再現しているはずなのに・・・

1993年のプラハでのフィギュアスケート世界選手権、アメリカのナンシー・ケリガン選手、優勝候補と言われながらフリーで不安定な演技になってしまい、まさかの台落ち。そこで彼女のコーチ陣は考えた。来年はオリンピック、何かを変えなければ・・・と。徹底したのは「いつでも、どこでも、何があっても」の徹底。いつでも同じ演技ができるようにということなのだろう。同じようなことはスポーツの世界ではよくあるのかもしれない。昔の話だが、かつて(今も?)女子体操はルーマニアが非常に強かった。あのナディア・コマネチが活躍していた頃だろうか。何かで読んだのだが、やはり「いつでも、どこでも、何があっても」の徹底があったのだと記憶している。起き抜けに演技をしても成功できる・・・みたいなところまで徹底する。

このスポーツのような感覚を音楽にもそのまま持ち込んでしまうのはどうなのだろう?そもそも我々が弾く作品の作者、つまり作曲者は不安定な人たちだったような気がするのだ。感情に流され、普通の人だったら持ちこたえるようなことも、ヘナヘナな倒れ込んでしまうような不安定さを抱えていた、だからこそ音楽が生まれた・・・

楽譜に忠実、自分の感情は排除、作曲者ほどではないにしろ、演奏する側も人間である以上、「いつでも、どこでも、何があっても」的にキッパリと楽譜、自分、感情というものを分けることも難しいのではないか?

最大の人生の悩み、それはスーパーで鰺にするか、鮭にするか・・・このような人生だったとしたら、安定はしているだろうが、味気ないもののように思える。感情の使い場所がないもの。波乱万丈人生を自ら望むわけではないけれど、感情不使用の生活というものもどうなのだろう?そもそもそんな人生だったら、音楽なんて人生から必要なくなるような気もする。

心の琴線に触れる、まさにこれは自分の中の感情に触れるということではないか、ため込んできた感情に音楽、演奏が触れてくる。その自分の感情というものを排除してしまっていいものだろうか?機械にでもなれと?

クラシック音楽、聴き手側と供給側、供給側に教育というものも含めて考えてみると、供給側は、ザハリヒな方向性に頼りすぎているように個人的には感じる。聴き手は、もっと生々しいものを求めてきているのかもしれない。今の世の中、辛いもの・・・

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