ピアノのある生活、ピアノと歩む人生

「ピアチェーレ」代表の私的ブログ

愛で終わる人々 1 

 

本場の音、基本的に僕はこれを信じない。ショパンを本当に演奏できるのはポーランド人だけだ・・・とか。やはりドイツ人だけあってバッハの神髄に迫るような・・・とか。信じない。我々日本人は西洋音楽を演奏できないではないか?マリア・カラスはアメリカ人にしてはイタリアオペラが上手だ・・・なんて言う人もいない。アルゲリッチの演奏にアルゼンチンらしさ感じ取り感動するなんてこともないように思う。そう、本場の音なんてないのだ。国籍なんて関係ない。

それはそうだが、苗字がアルファベットのiで終わる人々がいる。つまりイタリア人。イタリア人ってオペラ、愛の国・・・そのようなイメージはある。つまり歌う人というイメージ。

不思議なのだが、ピアノのレッスンでは「歌って~」のオンパレードなのに、日本のピアノ教育、ピアノレッスンとイタリアとの接点ってあまりないような?歌が好き?オペラが好き?声楽科を受験するの?・・・みたいな?日本のピアノって、どうもドイツっぽい。それはいいのだが、どこか重苦しさも感じる。バッハの平均律は旧約聖書でベートーヴェンのソナタは新約聖書とか・・・お、重い。どこか受験の必修科目のような?

僕はバッハよりもヴィヴァルディが好き・・・これはかなり勇気の必要な、かつ大胆な発言だろうか?鑑賞者としては(学習者としても?)神バッハよりはイタリアン・バロックに惹かれる。バロックのピアノ、チェンバロよりは、弦、声楽に惹かれる・・・

ドイツとの接点はあった。今の流行はロシア・・・だろうか?「ロシア奏法」とか?

何故イタリアではないのだ?歌の国なのに・・・ピアノって歌っぽくない楽器なのか?

苗字がi、愛で終わる人々、つまりイタリア人の歌、作品、ピアノ演奏を追ってみたらどうなるだろう?歌の国の人は、やはり歌うのだろうか?それとも国籍は関係ないのだろうか?

ピアノで歌って~

ならば歌の国を彷徨ってみようと・・・あまりピアノ人は訪れない国だからこそ訪ねてみようと・・・

僕の初クラシック演奏会、つまり生まれて初めての生演奏体験が歌の国の人の歌だった・・・

1973年のことだ。Corelli・・・ほら、愛で終わっている。

kaz




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先読み準備万端!! 

 

フィギュアスケートの演技で多少の取りこぼしがあっても高得点の出る選手、出ない選手、ある共通点があるように思う。例えば、ジャンプを跳んだ場合、片足で降りるということだけしか考えていない(ように見える)選手と、跳んだ瞬間に降りた後の姿勢、軌跡の美しさまでを想定、準備している選手との違いみたいな差だろうか?

ピアノ演奏でも、ある音を鳴らした瞬間、次の音に対しての自分なりの「理想サウンド」が頭の中で鳴っているだろうか?そのサウンド、音を鳴らせるようにするのが練習・・・

ジャズのアドリブ、この場合、鳴らしている音に必死・・・だと続かないように思う。次の音、さらに次の音が頭の中で鳴っていないと難しいのではないだろうか?何故にクラシックになるとこの感覚が乏しくなるのだろうか?

練習とは印刷された音を鳴らせるようにする・・・ではなく、次の理想音を具現化すること・・・と捉えてみたらどうだろう?つまり準備万端状態というものを身につけるということが練習。準備するためには、次の音の理想音が必要。そのために準備をする。そこのところが曖昧だと、つまりどのような音が欲しいのか自分で分かっていないと、準備という観点すらなくピアノを弾くことになってしまう。

これには練習というものの概念を変えてみる必要がある。発想転換。ここが難しいのかもしれない。一応弾けるようにする・・・のが練習ではなく、譜読みではなく、最初に理想形を掴む。そこにどうしたら到達できるのか、それが練習。

ドを弾いた。次のレの音は、行き当たりばったりではなく、理想のレが自分の中で鳴っていて、その理想に近づけるのが練習・・・理想の音がなければ準備も何もないではないか?

こう考えると、譜読みでも「一応音を並べるようにしてから、つっかえずに通して弾けるようにしてから表現を考える」という手順が、いかにおかしいのかが分かってくる。

習慣というものは恐ろしいというか、子どもの頃から「まずはつっかえないで弾けるように、(表面上)正しく弾けるように」ということを徹底され、「弾けるようになってきたから、では音楽的な表現も考えていきましょう」的なレッスンをずっと受けてきたのなら、大人になっても「練習とはこのようなもの」「曲を仕上げるとはこのようなもの」みたいな感覚があるだろうと思う。

ある演奏を、ある曲を聴いて萌えたのなら、その時に「ああ素敵・・・」と感じたのだったら、感じたからこそピアノなどを弾いているのだと思うが、感じたのだったら、あなたは機械ではないのだ。音楽的不感症、音並べ人間ではないのだ。

① 自分差別をやめる・・・どうせできないしぃ。ピアニストさんじゃないし。基礎がないしぃ・・・をやめる。
② 自分の描いた理想音楽は素晴らしい。まず自分自身がそのサウンドに心を動かされたのだから。遠いかもしれないが、できると思うこと。そのサウンドが自分を動かしたのだから。
③ 自分の理想サウンドを信じて、準備をすること。そこに無頓着だと、「ああ、こんな音じゃないんだけどな」とさえ思わす、ツラツラと印刷音符だけを弾いてしまう。
④ 上手い人って準備が早いと認識する。才能とか、経験とか、そのようなことよりも、準備が早い。
⑤ 何を準備するの?自分の理想音。一応弾けてから・・・ではなく理想サウンドのために練習する。

バーブラの初期の頃の歌唱。僕が生まれる前だ!自然に音楽的に何気なく歌っているようにも聴こえるけれど、準備が凄い。ある音を歌った瞬間、身体中、意識のすべてが「次の音」に向かっているような???

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針の穴に音を通す 

 

昨日の演奏会、無事終了しました。聴きに来ていらして下さった方々、ありがとうございました。一人一人にお礼をするべきなのですが、それも難しく、失礼ながら、ここでお礼とさせて頂きます。

僕は、やはりピアノ人間ではなく歌人間なのだと痛感する。ピアノではなく、声楽を聴くとピアノのモチベーションが維持できるというか?

歌を聴くといいとはよく言われる。どうもピアノの人は声楽が苦手の人が多いように感じる。ピアノとは異質のものと感じるのだろうか?「ええ~?オペラ???」みたいな?歌を聴く利点、おそらく「表現力」とか「歌心」とか、そのようなことに効果がある(?)と考える人が多いのではないだろうか?むろん、卓越した偉大な歌手の歌は、そのような点でも素晴らしい。全体として聴き惚れてしまうというか?

歌から盗める(?)ものとしては、むしろ「発声」なのではないかと思う。ピアノだと「タッチ」「打鍵感覚」みたいな?

素晴らしい歌手の声、音、非常に集中されている。針の穴に音を通す・・・という感じなのだ。ボヤ~ンと無意味に広がらない。この感覚はピアノでも生かせると思う。ピアノ演奏も、音そのものが集中されていないと凡庸な印象を与えてしまう。

集める、集める、集める・・・という意識だろうか?弾いてしまったら、次の集まった音のための準備をする。そうしないと、ピアノの場合、バシン・・・みたいな直接音、基音のようなものが目立ってしまう。歌うように・・・これは「いかにも歌っぽく表現する」というよりは、歌手の発声の瞬間を盗む、ピアノに生かすみたいな意味に捉えてみるといいかもしれない。

聴いて感じることはできる、歌うように弾いてみたい、表現力豊かな演奏をしてみたい、でもどんなに歌うように心を込めて(?)演奏しても「ただ音を並べている」のような演奏になってしまい、どうしていいのか分からない、先生も「練習するしかないのよ」ぐらいのことしか言ってくれない・・・

偉大な歌手の歌唱を聴いてみる。それも全体的に「素敵ね~」という聴き方ではなく、声の出る瞬間、その声と次の声のつなぎ・・・のようなことをピンポイントで聴いてみる。針の穴にどう音を通しているのか、集中された音とはどのような音なのかのイメージ・・・

kaz




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ピアノは簡単に崩れ去る 

 

ピアノを弾くことは続けるだろうという強固な意志があるものと思っていた。自分に深刻な事態が起こっても、とりあえずピアノは続けてきた。親族や親に何があっても、内なる力を総動員して、ピアノのある生活は維持してきた。練習量は減ることもあるし、ピアノの前に座るということはできなくても、「このままピアノから遠ざかるのかな・・・」という危機感はピアノを再開してから今まで持ったことはなかった。

ピアチェーレ演奏会は明後日。少しだけ宣伝すると、まだお席はあります。ピアチェーレのホームページ、メールフォームよりお申込み下さい。無料の演奏会です。このブログにピアチェーレのページをリンクしてありますので、興味のある方はどうぞ・・・

本番前は練習に集中したいもの。これは誰でもそう願うだろう。僕の場合、生活の中のピアノ・・・というスタンス、少し甘えた(僕はそうは思ってないんだけど、手が痛くなるまで、寝ないで練習すべきという美学の方からはそう感じるかも?)スタンスなので、仕事は休まない。当日は休むけれど、練習のために仕事のスケジュールを調整するということはない。前日もその前の日(今日ですね。夕方から仕事です)も日頃と同じでいく。だからこそ、練習は集中したいのだが、それができないこともあるのだということを知った。

自分のこと、親のこと、自分の配偶者、子どものこと・・・となると、自分の内なる力を総動員して困難を克服していくものだ。人間は強いのだ。そのような意識さえなく、進んでいける。自分の経験からもそれは思う。でも、ちょっと離れた人というのだろうか、親しい友人とか、親でも義理の親、そのような人たちに何かあった場合、困難という事実が、より圧倒的に自分に降りかかってくるような感覚を持つ。長男の嫁とか、大変だろうなと思う。自分の親以上に、通院、世話、自分の家族との生活の調整など、意識下の中での心労は多いのではないかと思う。

僕の場合、友人が入院した。緊急入院というメールから連絡が途絶えたので、非常に心配した。生きているのか、生きていても集中治療室レベルなのか、どうなんだろう、非常に心配し、それこそピアノどころではなくなった。自分の困難の場合は、なんとかコントロールできるのだが・・・

何があってもピアノを弾き続けるという意思は簡単に崩れ去った。先日ピアチェーレ演奏会のリハーサルがあった。その直前まで友人の安否が不明だったので、暢気にピアノなんて弾いていていいのだろうかという想いが非常に強かった。なんとか生きている、話せる・・・そのことを確認できたので、リハーサルでショパンなどを弾けたのだと思う。

意外と簡単にピアノライフなんて崩れ去ってしまうものなんだぁ・・・それが正直な感想だ。無料ではあるけれど、世間に告知した演奏会が控えていたから弾いていたという感じだ。これが、ただレッスンに通う、たまにサークルに出る、発表会には何を弾こうかな・・・というピアノライフだったら、あっけなくピアノというものが日常から崩れ去ってしまっただろうと思う。

大人のピアノ、特に中高年のピアノの場合、そのピアノライフは薄氷を踏んでいるようなピアノライフなのだ。いつ氷が割れるか、落ちてしまうか分からない。そうなっても、それは特別不幸なことでもなく、世間ではよくあることなのだ・・・

もちろん、ピアノはそのような中でも、なんとか練習していた。本番があるから。緊張感を自己救済に使ったという側面もある。あとは、ギターを聴いていた。世界を駆け巡るワールドワイドなギタリストではなく、自宅の部屋で録画した演奏をユーチューブでアップしているようなギタリストの演奏。その演奏を聴いて自分の癒しとしたところがある。これも自己救済かもしれない。

Cyrloudさんというギタリスト。この人の演奏は以前から好きだった。なんとなく演奏が自分と似ているなぁ・・・などと生意気にも感じたりもしていた。たま~にメールでやり取りするような間柄なのだが、個人的な友人・・・というわけではない。「癒しにさせて頂きました~」などとは彼には言ってはいないのだが、お世話になりました。彼自身も重篤な病を克服し、日常の中で、生活の中でギターを弾いている。

音楽って切ないねぇ・・・生活も切ない・・・でもそこがいい・・・薄氷ということを再認識させてもらった。

Cyrloudさん、ありがとうございます。

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バーンスタインと慟哭 

 

中学生だったと思う。1979年なのでそうだと思う。ピアノは中学進学と共に辞めていたので、正直に言うと「せいせいとしていた」と思う。またピアノを他の先生に習うとか、教室に通うとか、考えられなかった。子ども時代特有の無責任な生活を無意識に満喫していたと思う。音楽は好きだったし、ピアノの聴くのは好きだった。家からピアノというオブジェクトが消えても、何も感じたことはなかった。

「音楽愛好家、鑑賞者としての道を歩むんだな」という自覚があった。それでいいんだという自覚。あなたはピアノが下手なのね、そう言われ続けることもなくなって、音楽だけが好きであればいいという生活を満喫していたと思う。

中学生にしては音楽会には通った方なのではないかと思う。小学生の時に案内役をしてくれた医大生は、本格的に医師の道を歩み出したし、これからは自分なりに音楽とつきあっていこうと思っていた。

まだサントリーホールなども存在していなかった時代、来日演奏家のコンサートは東京文化会館で行われることが多かった。ここしかなかったという感じでもあった。ニューヨーク・フィル&バーンスタイン、この演奏会は当時でも話題になっていたように思う。若輩音楽愛好家としても是非聴いてみたかった。お小遣いなど吹っ飛んでしまった記憶がある。

音楽愛好家の常として、当日演奏される曲はレコードやFMなどで予習はしていた。ショスタコーヴィチの五番の交響曲、そのフィナーレで人生初めての慟哭の瞬間がきた。この感覚は予想していなかったもので、非常に困惑した。

なにか、とてもやるせない感じ?これでいいと思っていた、思い込んでいたことを反対尋問されてしまうような感覚?

「この感覚を聴いて閉じ込めているだけでいいのかい?それで本当にいいのかい?」そのように問われてしまうような感覚。それでも僕は強情なので、ピアノを再開とか、そのようなことは一切感じなかった。もうあのようなことはもういい・・・

「ではどうしたら?自分の中で燃え盛ってしまう気持ちをどう処理すればいいのだろう?」

中学生だった僕は、ただ泣いた。泣きながら歩いた。電車に乗れるような状態ではなかった。たしか、上野から日暮里まで歩きながら気持ちの整理をしていたと思う。

その後も似たような「人生慟哭の瞬間」は何度もあった。それでもピアノを弾くという行為に至らなかった理由としては、ピアノ教育、ピアノ教室、ピアノ教師などというものにトラウマのようなものを感じていたからだと思う。でもそれよりも大きな理由は、「人生忙しかった」というものだろうと自分では思っている。人並みに進学し、就職し、さらには住む国を変え、帰国後も職業を転々と変え・・・という、どこかレールから外れた人生を送ってきたからだと思う。

もう40歳(まだ40歳?)という頃、生活が落ち着いたのだ。仕事をして時間があればピアノを弾いて・・・という「普通の生活」を送るようになった。ただもう二度と味わいたくないのが、中学生の時に感じたバーンスタインの慟哭、ショスタコーヴィチの慟哭・・・

この時の気持ちを味わいたくないから、今の自分は、弾けるときにはピアノを弾いているのではないかとさえ思う。

kaz




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