ピアノのある生活、ピアノと歩む人生

「ピアチェーレ」代表の私的ブログ

愛好家的発想 

 

「音大を卒業しているわけではないんですよね?素人が話題にするべきことではないと思います。今のピアノ教育界のことの何が分かるというのですか?子どもの数は減っているのです。楽しさでつなぐことの何がいけないんですか?」

このようなメールに関しては、無反応というか、反応することができない。けれども「その通りで~す」と思うところもある。僕は音大を卒業しているわけでもないし、まあ、素人なわけですから・・・

「音楽やピアノの導入教育に対して、どこか理想論というか、とても音楽愛好家的発想だと思う時があります」

このようなメールに関しては、理想論というのはどうかなと思うけれど、愛好家的・・・という部分はそうかもしれないなどと思う。僕は子どもの頃、6年もピアノを習っていて、全く進歩しなかった。ピアノ歴では「バイエル途中」「ブルグミュラー25数曲」「トンプソン1巻数曲」というのが正確なところだ。

つまり、きちんと基礎教育を受けてこなかったのだ。今の自分のピアノは、ほぼ独学で身につけたものと言っていいだろうと思う。

ピアノ仲間、つまりアマチュアのピアノ弾きでも、僕のような特殊ケースの人は少ない(いない)。別に専門的に習うとか、音大へ進学するとかではなくても、ほとんどの人がチェルニーを練習し、インヴェンションで苦労し、ソナタやロマン派の作品が弾けるようになるまで、その時の先生に仕込まれている。ピアノ学習者的な発想というものもあるのだろうと思う。

僕は、この部分が欠けているのだ。レッスンでは停滞しながらも、ショパンを自分で弾いてしまったというのは、学習者としてではなく、愛好家として弾いてしまったという感覚が非常に強い。

僕にはレッスンで合格し、次の課題に進み・・・ということで感動を得た経験がない。あくまでもピアノを弾く動機としては、先に感動があって、そして弾くという順序なのだ。ここが「愛好家的」なのだろうと思う。

愛好家的・・・つまり、音楽というものは、感動があり、その後にプレイがあるという発想をしがちで、プレイそのものの苦労は、どこか当たり前のものと思ってしまっている。僕が独学で弾き始めたのは8歳の時からで、この時には多くの演奏をレコードで聴き、その感動から弾くという順番が当たり前になっていた。弾けるようになるまでの苦労をどうにかして、楽しいものにしようという発想そのものがなかった。弾けるようになることが楽しいという発想はあったけれど・・・

なので、「興味の持てる教材」とか「楽しいレッスン」という発想そのものが理解できないのだと思う。レッスン時間を楽しく、笑いに満ち溢れ・・・ではなく、弾けるから楽しい・・・と思ってしまうのだ。

むろん、3歳児や4歳児のレッスンで「音楽からの感動」というものを主眼としたレッスンというものは現実的ではないのかもしれないけれど、8~9歳になれば、偉大な演奏に開眼し、感動し、心の欲求からピアノを弾くという可能性だって出てくるのではないだろうかと思う。正直、「楽しく・・・」ではなく「どのように感動を伝えるか」というレッスンというものは不可能なのだろうか?

誰だって練習そのものは「楽しい」というものではないはずだし、ピアノの先生だって楽しさだけで音大まで進学したわけでもないだろう。やはり「感動」というものがあり、弾かずにはいられなくて音大に進んだのではないだろうか?

グリエールのこの曲、この曲は今日初めて知った。このような曲があったという喜び、感動、なのでピアノを弾きたくなるのだ。もしこの曲を実際に練習するとしても「楽しく弾けるようになりたい」という発想は、やはり僕にはない。8歳の時からそのような発想はなかった。

このあたりが「愛好家的」と言われれば、そうなのかもしれない。

kaz



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