ピアノのある生活、ピアノと歩む人生

「ピアチェーレ」代表の私的ブログ

最終目標点を追う、生徒も教師も・・・ 

 

以前にもゴロドニツキのことは書いたように記憶している。基本的にはピアニストとしてよりも教師として知られている人だと思う。約50年間、ジュリアード音楽院の黄金期を支え、多くの生徒を育ててきた人だ。

生徒はゴロドニツキに何を求めたのだろう?生徒はジュリアードの学生なので、ゴロドニツキも「どうすれば練習してきてくれるんだろう?」なんて悩みはなかったに違いないけれど、このような「名教授」には何かしら生徒を引っ張るなにかがあったのだと思う。具体的な奏法だったのかもしれないし、もしかしたら「有名だから」とか「偉い人だから」のような理由で師事していた人だっていたのかもしれないが・・・

なぜ多くの生徒を惹きつけたのだろう?個人的にはゴロドニツキ自身が音楽を追及する姿勢を崩さなかったからだと思う。教えることがメインの人生になっても、自身が音楽に焦がれ、弾いていたからだと思う。そのようなものは滲み出る。人に伝わるものだ。

教師と生徒との究極の目標点が一致していた・・・

レッスンでの具体的な指導はメカニカルなことだったにしても、目標点が暗黙の了解で一致しているという前提が教師と生徒との間にあったのでは?狂おしいほどに焦がれてしまう音楽の世界、そこに触れるために、自身で再現するためにという目標点。

この目標点の一致ということが難しいのだと思う。基本的に、小学生でも最終的な目標点というものを自覚していなければ、ピアノを継続していくのは難しいと僕は思う。「あっ、先生、奇麗に弾けた!」とか「先生、ピアノって楽しいね!」と生徒が日々のレッスンで感じるということは、それは経過的な目標点なのだ。そこで終わるのではない。

元生徒の方たちからのメールを分析すると、この目標点というものが示されなかったという人が非常に多い。

「チェルニーやハノンも練習しないと・・・指の強化になるし・・・勉強になるのよ」

チェルニーやハノンで得たものも、それも目標点の達成だけれど、それは経過目標なのだ。最終目標に行き着くための。

ここで最終目標点が生徒に示されていないと、「なぜこんなつまらないものを弾くのだろう?」と生徒は思う。茨道(?)の先、その花園の世界というものを生徒が実際に感じていないと、練習の意義や意図を自覚できない。

花園・・・それは偉大な演奏であったり、作品であったりする。言葉を変えると、真に偉大な作品の、真に偉大な演奏から人は花園の世界を知るのだ。その花園は、楽しいというよりも哀しいという感じに近いのかもしれない。狂おしいほどに切ないというか・・・

この世界を知らないと、毎日の苦しい(?)日課の必然性を生徒は感じられないのだ。

何故にエチュードを弾くのか?経過的な目標点を示す先生は多いと思うし、小学生だってそんなことは言われなくても理解しているのだ。「弾けるようになるためでしょ?」と。

弾けるようになったらどうなるの?どこに辿り着くの?

それが花園の世界なのだ。ゴロドニツキは生涯その扉を開こうとしたのだ。だからジュリアードの生徒に伝わったのだと思う。追い求めないと開かないし、扉は簡単に閉ざすことができる。

「誰にだって合う靴なんてないだろう?ピアノの指導も同じだよ」 サッシャ・ゴロドニツキ



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category: ピアノ雑感

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