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ピアノのある生活、ピアノと歩む人生

「ピアチェーレ」代表の私的ブログ

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チキン奏法 

 

今、パリ音楽院の教育に関する本を読んでいる。注目したのは「フォルマシオン・ミュジカル」という概念。大雑把に言うと、総合的ソルフェージュ能力ということになるだろうか?視覚的に音符を読んで鍵盤に移していく、まずはそれをして、つっかかったりしないで弾けるようにする。表現とかは、その後・・・みたいな概念とは正反対のような?

スティーヴン・ハフの曲を勉強していて、彼はピアニストであるだけではなく、音楽家であるのだなということを感じている。これは往年のピアニストたちの演奏を聴いても感じることだ。弾きこなす能力というよりは、総合的な魅力?音楽そのものの魅力を感じるというか?

ピアノ仲間に驚かれることがある。それは「なんちゃって弾き」だ。耳コピで「なんちゃって英雄ポロネーズ」とか弾くと、まず驚かれる。記憶を辿ってみると、これは僕の子どもの時からの特技(?)なのだ。教材は「いろおんぷ」なんだけど、聴いた曲を様々な調で弾いたりとか、なんちゃってショパンのワルツを弾いて悦に入ったり。僕の場合、その能力に反比例するかのように読譜力が弱かった。「これはド。じゃあこれは?」「???」みたいな?「なんで分からないの?バカなんじゃない?」みたいな?

たしかに視覚的に読むというのは大切なことだ。ここでつまずくと、先に行けない。練習できないもの。読めないと復讐も予習もできないわけです。サウンドを先に体験してしまうと、きちんと一つ一つの音を視覚的に読んでいくのが、非常に辛くなる。

読譜は大切。これは分かる。教師がなんでも模範演奏をしてしまうと、生徒は努力しなくなる?だから弾かない?耳に依存してしまうから?

日本の音並べ現象、これは音大レベルでの「フォルマシオン・ミュジカル」ということよりも、入門期の読譜ということに原因はないだろうか?僕のような生徒が続出してしまうのも困りものなのだろうが、視覚的に判断して、正しい鍵盤を押して、それなりに曲が進んでいってしまうというのもどうなのだろう?

ピアノを弾かない人は、「おたまじゃくし」を理解して、鍵盤で両手が異なる動きをするということさえ脅威に感じるらしい。たしかに高度な動きなのかもしれないが、「茶碗を片手で持って、もう一方の手で箸を動かすじゃない?」と言いたくなる。そろそろピアノ教育界は、視覚→鍵盤を押す→弾けたら合格・・・みたいな手順を考え直してもいいのではないか?

子どもの頃だったら、合格、つまり先生から丸をもらうということだけでも、ある程度の達成感のようなものはあるのかもしれないが、大人になったらそうではないはずだ。「音並べになってしまう」それは大人再開組のピアノ弾きたちを苦しめている。なんとなくは自分の演奏の問題点を感じることはできる。何を弾いても平坦とか?ではどうしたら・・・

子どもの頃の読譜をそのまま継続していないだろうか?むろん音符は大人だから読める。でも音符ではなく楽譜を読む。大人でも、このことは未経験という人が多く存在しているような気がしてならない。。大人の場合、音並べ演奏の原因を、読譜のまずさということと結びつけないのでは?自分には才能とか、感性が足りないからと勘違いしてしまうことも多そうだ。

視覚的に瞬時に反応して、正しいキーを押す。これだけだったら鶏にもできるらしい。「凄~い!ミスタッチなんかないじゃない?」

視覚的に判断して、ただ正しい音を押す、これができないとピアノは難しいけれど、人間なのだ。鶏と同じでは哀しい。

この弾き方、楽譜の読み方を「チキン奏法」と呼ぶ。我々はチキンではいけない。

kaz




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