いい人・・・ジロティ
アレクサンドル・ジロティの代表作って何だろう?そもそもジロティは知られているのか?バッハ~ジロティの「プレリュード ロ短調」が中では知られているだろうか?もはや編曲ではなくジロティのオリジナル作品に聴こえてくる。たった見開き2ページの実にシンプルな楽譜。リピートの際、内声を浮き出していくところが難しそうだ。楽譜には「リピートの際は、ここを出してね!」なんて書いていないから。シンプルな曲は演奏が困難、この曲はその代表格ではなかろうか?
でも、この曲以外でのジロティ情報って、あまり知られていないような?この人はラフマニノフの従兄でもあった。彼にピアノを教えてもいる。ジロティはリストの高弟でもあった。師匠のリスト、同門のザウアー、ローゼンタール、フリードハイムなどと共に、リスト門下集合写真に写っている。この時代の常として、ジロティはピアニストでもあったが、指揮者、作曲家でもあった。従弟のピアノ協奏曲第2番の初演の際、指揮を担当している。
ラフマニノフの最も有名なピアノ曲、おそらく「プレリュード 鐘」ではないかと思う。モスクワ音楽院卒業後、19歳の時書いた若書きの作品だ。この曲はラフマニノフの代名詞ともなった。実際にアメリカでラフマニノフは、この曲を演奏しなければ、演奏会を終了できなかったらしい。客席から「Cマイナー!」と掛け声が叫ばれるほどだったらしい。
もともとは、従兄であるジロティが、欧州や米国などの西側で演奏した時に、この「鐘」を演奏し、有名になっていったという経緯がある。
ここで疑問。ジロティは従弟であるラフマニノフに対して嫉妬のようなものはなかったのだろうか?二人の年齢差は10歳。ジロティとしては、「もしかしたら作曲家としても、ピアニストとしても自分を超えていくかもしれない」と感じていたかもしれない。実際に知名度ということだけを考えると、従弟は従兄を完全に超えているように思える。
でも、ジロティという人は、類まれな「いい人」だったらしい。ラフマニノフ関係の書籍などを読んでみても、そのことが伺える。凡人が感じるような嫉妬はなかったと想像する。むろん、ジロティにもラフマニノフにも直接お会いしたことはないわけで、真相は分からないと言えばそうだが、でもバッハ~ジロティの「プレリュード ロ短調」などを聴くと、ジロティの純粋なる魂のようなものを想像してしまう。
従弟の「鐘」という曲に対しても、未来を拓く曲という認識があったのではないかと思う。なので自ら演奏し、世界に広めた・・・
kaz

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でも、この曲以外でのジロティ情報って、あまり知られていないような?この人はラフマニノフの従兄でもあった。彼にピアノを教えてもいる。ジロティはリストの高弟でもあった。師匠のリスト、同門のザウアー、ローゼンタール、フリードハイムなどと共に、リスト門下集合写真に写っている。この時代の常として、ジロティはピアニストでもあったが、指揮者、作曲家でもあった。従弟のピアノ協奏曲第2番の初演の際、指揮を担当している。
ラフマニノフの最も有名なピアノ曲、おそらく「プレリュード 鐘」ではないかと思う。モスクワ音楽院卒業後、19歳の時書いた若書きの作品だ。この曲はラフマニノフの代名詞ともなった。実際にアメリカでラフマニノフは、この曲を演奏しなければ、演奏会を終了できなかったらしい。客席から「Cマイナー!」と掛け声が叫ばれるほどだったらしい。
もともとは、従兄であるジロティが、欧州や米国などの西側で演奏した時に、この「鐘」を演奏し、有名になっていったという経緯がある。
ここで疑問。ジロティは従弟であるラフマニノフに対して嫉妬のようなものはなかったのだろうか?二人の年齢差は10歳。ジロティとしては、「もしかしたら作曲家としても、ピアニストとしても自分を超えていくかもしれない」と感じていたかもしれない。実際に知名度ということだけを考えると、従弟は従兄を完全に超えているように思える。
でも、ジロティという人は、類まれな「いい人」だったらしい。ラフマニノフ関係の書籍などを読んでみても、そのことが伺える。凡人が感じるような嫉妬はなかったと想像する。むろん、ジロティにもラフマニノフにも直接お会いしたことはないわけで、真相は分からないと言えばそうだが、でもバッハ~ジロティの「プレリュード ロ短調」などを聴くと、ジロティの純粋なる魂のようなものを想像してしまう。
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