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ピアノのある生活、ピアノと歩む人生

「ピアチェーレ」代表の私的ブログ

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曲を聴く?それとも演奏を聴く? 

 

学校の音楽の授業で「鑑賞」の時間があった。正直、とても退屈だった記憶がある。「聴いて感想を書きましょう」僕が生意気だったのかもしれないが、「安易な授業だな」と思った。感想ねぇ・・・「別に・・・」とも書けないし。

こう書いたらいいんだろうな・・・的なことを書いただろうか?「一本の筋のような水の流れが、次第に雄大になっていき」とか「雄大な河を音楽で表していて凄いと思った」とか?そんなことを書いていたように思う。鑑賞の授業では、公立学校の野生児たちが、崇高なクラシック音楽によって心が開き、楽の音と共に音楽室は光に包まれていった・・・などといったこともなく、皆退屈し、教科書の作曲家の顔に、いたずら書きしていたような?「ほら、ソバージュのスメタナ!」みたいに?「真面目に聴きなさい!!!」

今では懐かしい想い出だが、今でも不思議に思うことがある。その時、いやそれからも、鑑賞の授業で、レコードなどで演奏している演奏家については、何の説明も紹介もなかったことだ。作曲家については説明がある。でも演奏家はどうでもよかったのか?

演奏家とは作曲家の忠実な下僕である・・・そうなのか?音楽鑑賞は、その頃でも僕の趣味ではあった。でも僕は、作曲家よりも演奏家に興味があった。ショパンよりもローゼンタール、ベートーヴェンよりもシュナーベルに興味があった。曲というよりは、演奏を聴いていたのかもしれない。

作曲家の意図、楽譜に忠実に・・・そうなのだろうが・・・

でも、クラシック音楽を苦手とする人の多くは、このあたりの概念を鬱陶しいと思うのではないだろうか?僕はクラシック愛好家だと思うけれど、僕も鬱陶しさを感じるもの。堅苦しいというか。

ラルス・フォークトという有名なピアニストがいる。彼のモーツァルトのCDを所有しているのだが、どうも聴く気になれないでいる。彼の言葉が気になる。「私たち(演奏家)は作曲家の召使いであり、全力を尽くして作曲家が何を考えていたのかを探り、その魂に触れ、作品を解釈して作曲家の個性を表現しなければいけません」その通り!ご立派!・・・と思うし、そのような立派な演奏をするから有名なのだろうが、どうも聴く気にはなれない。

偉大な作曲家もこう言ったりしている。「演奏家は妙な解釈などせず、作曲家の書いたことを、その通りに実行してくれればよい」ストラヴィンスキーの言葉らしい。有名な作曲家の言葉なので、ひれ伏さなくてはいけないね。

でも、考えてみると、このような作曲家の意図とか、楽譜に忠実とかって、クラシックだけの現象のようにも思うのだがどうだろう?昭和アイドル、天地真理の「恋する夏の日」「虹をわたって」「ひとりじゃないの」といったヒット曲、森田公一が曲を提供している。まさに適材適所といった感じだが、天地真理の歌唱を聴きながら、森田公一の偉大さを感じながら聴いていた人って、そう多くはないはずだ。曲というより、天地真理という歌手を愛したのでは?歌謡曲だけではなく、ジャズなども、そのパフォーマーを、彼らの妙技を聴く、愛でるのようなところはないだろうか?そのようなことを考えてみると、クラシックって特殊なのかもしれない。

クラシックの演奏家にも「どうしてもその演奏家を感じてしまう」という人は存在する。いや、した・・・と表現すべきか?パッと思いついたところでは、ヤッシャ・ハイフェッツ、ウラディーミル・ホロヴィッツ、そしてマリア・カラスといった人たち。

ホロヴィッツの演奏を聴いて、シューベルトやショパン、スクリャービンに想いを馳せることはない。僕はホロヴィッツを聴いているという感覚がある。むろん、曲が素晴らしいのだろう。でも僕はホロヴィッツを聴いている。

マリア・カラスの歌唱も同様。この歌唱を聴きながら、ビゼーの偉大さを感じるよりは、もうそこにはカラスしかいない。

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