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ピアノのある生活、ピアノと歩む人生

「ピアチェーレ」代表の私的ブログ

ポーランド国歌 

 

外国の街を歩いていて、例えば、見ず知らずの人とエレベーターに乗り合わせるとする。その時無言でも相手が笑顔になる時がある。無言ではなく「ハイ」とか「チャオ」と言ってくれることも多い。それに比べると、日本人の場合は無言、無表情であることがほとんだ。人とぶつかっても無言とか。これって日本人が不愛想というよりは、愛想の必要さえない平和な国に住んでいるということにもなるのかもしれない。周囲は自分と同じ日本人。外国の場合、様々な人種の人がいて、考え方もそれぞれ・・・みたいなことが前提にあり、「私は危険人物ではないのよ、あなたもでしょ?」的な習慣が身についているのでは?

あるエッセイストの中国留学時代のこと。中国の田舎で何が何でも英語で通そうとする西洋人と遭遇することが多かったらしい。「こんな田舎で英語?あんた、そりゃあ無理ってもんよ」と思い、拙い中国語と英語で通訳をしなければならない状況が何度もあった。その時、通訳したエッセイストにお礼を言った西洋人は皆無だったそうだ。「英語は世界共通語?それはあんたたちの言葉が世界で最も簡単な言語だからでしょ」などと思ったりしたそうだ。西洋人たちの各々の性格が傲慢だったというよりは、英語が通じないという世界を知らな過ぎたということもあったのではないかと思う。

育った環境、国によって植えつけられるものというのは、あるのかもしれない。

被征服民族としてのポーランド人、彼らにとって、そのようなものはあるのだろうか?個人的経験からすると、祖国に対しての愛憎入り混じった複雑な感情・・・というものだろうか?むろん僕の知り合い一人だけでポーランド人を語ることはできないだろうが・・・

パデレフスキのサロンに出入りするのは、もはや音楽家、芸術家だけではなかった。世界の要人のような政治家も出入りしていたと仮定できる。パデレフスキは、一人のピアニストという枠では収まらない国際人となっていた。祖国の首相、兼外務大臣に任命されるのは、ある意味自然なことだったのかもしれない。政治家でピアノの上手な人というのはいるのかもしれないが、ピアニストが一国の首相になった例はパデレフスキが最初で最後かもしれない。

ショパンとパデレフスキ、愛憎混じった複雑な祖国への想いというものは共通していたのかもしれないが、あまりにパデレフスキの場合は、翻弄される祖国を見つめてしまったのかもしれない。

ナチス・ドイツ軍がポーランド侵略、一か月後にはワルシャワ没落。このニュースを知った時、パデレフスキのポーランド魂は震えたのではないかと想像する。

1941年、滞在先の米国でパデレフスキは亡くなった。パデレフスキの個人的友人でもあった、時の合衆国大統領、ルーズベルトの命により、500人の米軍、音楽隊が遺体に付き添い、五番街を行進し、アーリントン墓地に19発の礼砲と共に埋葬されたと言う。これは米国最高の礼をもって行われたということになる。

記憶を辿ってみる。異国の地で共にテレビで観た長野冬季オリンピックだっただろうか?それとも他のスポーツの大会?覚えてはいないのだが、ポーランドの人の友人が「君が代」を聴いて、「なんだか永遠に続くような曲だね」と言った。僕は鋭いなと感じたと共に、ポーランド国歌を聴きたいと思った。友人は「ドンブロフスキかい?僕は好きじゃないんだ」と寂しそうな表情で言った。何か彼の中の、触れてはいけない領域に触れてしまったような気がした。

ポーランドの国家は、通称「ドンブロフスキのマズルカ」と呼ばれているそうだ。リズムは、もろマズルカ。ポーランド人の自尊心さえ感じるほど強烈だ。また歌詞が強烈だ。

「ドンブロフスキかい?僕は好きじゃないんだ」

kaz




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category: リサイタル 2018

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