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ピアノのある生活、ピアノと歩む人生

「ピアチェーレ」代表の私的ブログ

自分の中の強制的マジョリティー 

 

僕の子ども時代は、完全に昭和ピアノ全盛時代。「鍵盤の底まできちんと弾きなさい」と指導された記憶がある。「もっと底まで・・・しっかりカツ~ンとよ!」みたいな?当時の僕はレッスンそのものに疑問は感じなかった。そうなんだ・・・・と。ある時、外来ピアニストの演奏をテレビで聴いた。誰だったのだろう?女性であったことは覚えている。テレビでリサイタルを流す・・・有名なピアニストだったのだろう。1970年代、そして赤いドレス・・・記憶を総合すると、どうもアルゲリッチだったような気もするのだが、記憶は曖昧だ。ただ感じたことがある。鮮烈に覚えている。「鍵盤の底まで弾いてなんかいないじゃないか?」と。むろん、上っ面だけ鍵盤を撫でていたわけでもないはずだが、もっと「鍵盤の底までカツ~ン」とは異なる能率的な弾き方だったような?

本来は先生に「でもアルゲリッチはカツ~ンではなかったです」と返すべきだったのかもしれない。でもできなかったし、そうするべきという発想そのものがなかった。いつのまにか「底までカツ~ン」が自分の中での主流派、マジョリティーというものとして植えつけられていた。

「なんで私ったら(音楽的に)弾けないんだろう?」これは苦しい。ミスなく弾けないということよりも苦しい。ここで「どうせ・・・才能なんかないし・・・」となってしまうのではなく、自分の中の無意識のマジョリティーのようなもの、こうであるべき・・・となんとなく感じてしまっているマジョリティーに反発してみてもいいのかもしれない。「私に音楽性が皆無なのではなく、それを表に表出する技術を知らないからでは?」みたいに・・・

米国は同性婚が認められている。米国に限らずだが、外国のCMってLGBT的に開かれているように感じたりする。先のアップル社のCMなど、日本では考えられない。では欧米は進んでいて、単純に日本は遅れているのだろうか?つまり白と黒、善と悪・・・的な仕分け発想で考えていいのだろうかと。これはマイノリティーもマジョリティーも本来は同じなのだ・・・みたいな発想に切り替えた方がいいのではないか?「鍵盤の底まで」も時と場合にあるだろうし、そうではない場合もある・・・みたいな?

つまり主流派と単純比較して自分を強制的にマイノリティー化することもないんじゃないかと・・・

この動画、実際に米国での実話を再現化している。葬儀社にパートナーの葬儀のことで相談しに行く。でも同性愛者ということでサービスそのものを拒否されてしまう。現実にこのようなことは同性婚成立後の米国でも実際にあるようだ。ゲイ同士の結婚式用のケーキ、その注文を拒否したりとか・・・

白か黒か、善か悪か、米国と日本、オランダと日本・・・そうではなく、このような場面が世界のどこかで今もある、そのことに人間として耐えられないという想いがあるという根本的な何か・・・

それはマイノリティーとか、マジョリティーというものではなく・・・

kaz




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