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ピアノのある生活、ピアノと歩む人生

「ピアチェーレ」代表の私的ブログ

○○と思われたら・・・発想 

 

今年の8月にある演奏会、出演しようかどうか今非常に迷っている。実はこの演奏会には昨年も出演したのだが、その時には自分で編曲(耳コピ)した曲を弾いた。なので考えなく出演できたのだと思う。今年は6月末に自分のリサイタルがあるので、8月の演奏会への準備期間は、約一か月となる。同時進行の練習、これは考えられない。リサイタル前に違う曲も練習するなんて。「リサイタルで弾いた曲を弾けばいいじゃない?」自分でもそう思うし、出演するとしたらリサイタルで弾いた曲を8月にも弾くと思うけれど、そうなるとクラシックの名曲を弾くことになるし、ずっとリサイタルの曲を(つまり同じ曲を)練習しているので、リサイタル後は、それらの曲から解放されたいという想いもある。

でも以上のようなことは言い訳なのだと自分でも知っている。迷う本当の理由は、その演奏会の出演者のほとんどがピアノ教師であるということだ。そのような人たちに交じってアマチュアである自分が弾く?弾きにくいということは自分で認めるしかないが、自分はアマチュアとか、相手はピアノの専門家であるとか、あまりに思いすぎることは、ある意味自分で垣根を作っていることにならないだろうか?もっと本音をさらけ出すと、「素人のくせに弾くの?」あるいは「こんな程度でよく弾けるわね」とか、○○と思われたらどうしよう・・・的な発想があるのだと思う。○○と思われたくないという自分中心思想?これって自分差別?「どうせ自分は○○なので・・・」とどこかで逃げてしまう。楽なんだよね。少なくとも傷つかなくてすむ。

江戸時代、日本の同性愛への偏見が非常に少ないのを知った。これは意外だった。文化として同性愛に寛容だったところがある。今の日本より進んでいた?オーストラリアで昨年末に同性婚が認められた。アジア・太平洋地域ではニュージーランドに次いで二番めということになる。アジア地域での同性婚が難しいのは、宗教的な理由よりも(神の摂理に反するとか、地獄に落ちるとか)、○○と思われるという発想をする人が多いからかもしれない。村意識発想?子どもがカミングアウトしたとしても、キリスト教的罪悪感を感じる親はアジア地域では少ないのではないか?「そんな・・・神の摂理に反するわよ?地獄行きよ」というよりは「それだけは周囲に悟られないようにしてね」・・・のような?

○○と思われたらどうしよう・・・これは自分で考えてみたい問題だ。デヴィ夫人があるテレビ番組でこう発言したことがあったらしい。「同性婚には絶対に反対。愛し合うのは認めますよ。でも結婚は自然の摂理に反すると思う。結婚は子孫を残すことですから。それに反します」

反射的に「子どもができない人は結婚してはいけないのか?」と感じた。女性は子ども製造機か・・・とも。どうもLGBT問題よりも、ピアノ問題(?)に自分は偏見を持ってしまっているようだ。

アジア地域でも、最近台湾が「同性婚を認めない現行の民法は違憲である」という方向に進んだ。日本でもいくつかの自治体レベルでパートナーシップ制度のようなものはある。「えっ?渋谷区では同性でも結婚できるんじゃないの?」できません・・・結婚式を挙げることはできるかもしれないけれど、正式には今の日本では同性同士の結婚はできない。さらにパートナーシップ制度は、認められた自治体に居住していなければ有力ではない。つまり引っ越してしまえば制度を使う権利そのものを返還しなければならない。

この動画は昨年暮れにオーストラリアで同性婚が成立した瞬間の映像。メルボルンでの様子みたいですね。マルコム・ターンブル首相は、その瞬間こう語った。「これこそがオーストラリアです。ここは平等、多様性、愛、お互いの敬意を持つ国です」と。

○○と思われたらどうしよう?

kaz




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