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ピアノのある生活、ピアノと歩む人生

「ピアチェーレ」代表の私的ブログ

セピア色のガーリーな世界 

 

マリア・カラスのジュリアード音楽院でのマスタークラス、その講義録を読むと、次のような場面がある。「その旋律は一度聴衆は聴いているのです。同じ旋律を二回目に歌う時はヴァリアントをつけなさい」

生徒はジュリアード音楽院の学生なのだろう。その学生の教師は、偉大なるマリア・カラスのマスタークラスを自分の学生が受けるにあたり、入念な指導を行ったと想像する。なぜその声楽教師はヴァリアントなしで学生に歌わせたのだろう?

「そんな大事なこと、学生の感性に任せられないじゃない?」ということだったのだろうか?

ピティナの子ども(?)コンクール、4期時代課題というのは当然として、そうなると子どもにバロック期の作品を演奏させることになる。そこで問題となるであろうことは、やはりヴァリアント。昔、実際にピティナのコンクールを聴いた経験、そして最近動画でチェックして感じたのは、ピティナ側は、どうもヴァリアントを推奨しているようだ。実際にヴァリアント付きで演奏している子どもの演奏を聴いて感じるのは、「そのヴァリアントは子どもの自発的なものなのだろうか?」ということ。演奏者が異なっても同じヴァリアントが登場する場合、それは偶然なのかもしれないが、もしかしたら教師が指導している可能性もある。「こう弾きなさい」とヴァリアントを楽譜に書いてしまったり、決めてしまうのは、ヴァリアントの、もともとの成り立ちを考えると妙ではある。もし教師側が決めてしまっているのだったらという仮定の話だが・・・

クラシック音楽の世界で、ジャズのアドリブに似ているのが、このヴァリアントではないだろうか?つまりクラシック畑の人が苦手としている即興的要素。

バロック期、つまり昔・・・ですね?鬘族の作曲家たち、重々しいドレス、宮廷、教会、キリスト教・・・みたいなイメージ?「バッハはペダルをつけてはいけません」などと指導するピアノ教師、現在では少ないのだろうが、おそらくその理由は「当時にはピアノという楽器は一般的ではなく、バッハはチェンバロを想定して曲を書いた。チェンバロには現在のピアノのようなペダルはなかったのです」というものではないだろうか?「だったら最初からチェンバロで弾けばいいじゃ~ん?」などと、ひねくれた僕などは思ってしまうが、素直に受け取ってしまう生徒もいるかもしれない。

セピアの色が濃くなるほど、実はクラシック作品というものは、即興的要素が強かったのではないだろうか?ジャズみたいな?ジャズではないけど。ザハリヒな風潮は、作曲と演奏の分離が見られる最近のものだったら?演奏者個人の内なるもの、そんなものではなく偉大なる作品そのものが感じられる演奏がいいのだ・・・みたいな?作曲と演奏の完全分業の前の時代、長いクラシックの歴史、もしかしたら即興性が重んじられた時代だったと考えてみたらどうだろう?モーツァルトのコンチェルト、印刷された音符しか弾かないなんて演奏者、もしかしたら異端だったのかも?ショパンのワルツ、印刷された音符のみで演奏したら「なぜ何もしないの?」みたいな時代?

ヴィヴァルディの作品なんて、ロックのような鼓動を感じたりする。僕がおかしいのか?

セピア色のバロック時代、もしかしたら現代の我々が想像する以上に闊達でポップでガーリーな世界だったとしたら?

そんなことを考えていて浮かんだのがソフィア・コッポラ監督のこの映画。現代人が想像する以上に、マリー・アントワネット、ルイ王朝、ヴェルサイユのいう世界は闊達であったのかもしれない。固い儀式の裏でポップで人間的な世界。それは即興性とアドリブの世界・・・

「当時の宮廷にはマノロ・ブラニクの靴なんて存在していません。あり得ません」史実的にはそうだろうが・・・

kaz




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