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ピアノのある生活、ピアノと歩む人生

「ピアチェーレ」代表の私的ブログ

手段と目的 

 

ある病院、あるいは特別養護老人ホームの一場面。PTがお婆ちゃんに訓練をする。バーを使っての歩行訓練。「さあ、Aさん、バーを使ってあそこまで歩いてみて下さい」お婆ちゃんは歩くわけです。「ではまたこちらにむかって歩いてみて下さい」そこでお婆ちゃんはPTに言うわけです。「また元のところに戻すんなら、なんで歩かせたんだい?」「えっ???」

歩行訓練は大切だ。このPTにとっては歩くということは目的であったのかもしれない。でもお婆ちゃんには歩くということは手段でしかなかった。目的のために手段があるのだ。タバコが好きな人だったら、いつでも喫煙所に歩いていって吸いたい。「タバコが吸いたい」は目的で、そのために歩いていくという行為は手段であるはずだ。「さあ、向こうまで歩きましょう」そこには手段だけではなく、生活における目的があるはずだ。「食堂に柿があるんですよ、好きですよね?食堂に行きませんか?」この場合、食堂までの歩行は手段なのだ。目的は柿・・・・

ある曲に感動し自分でも弾いてみたくなる。そして練習する。この場合も手段が目的化することはないだろうか?指が動かないのよね、なんだか歌えないのよね、このパッセージはどうやって弾くのかしら・・・練習を始めたとたん手段の難しさに翻弄される、たしかにそこは大変な部分だ。譜読みからして挫折しそうになる。でも譜読みは目的か?手段なのでは?

巷には手段に関するものの情報は沢山ある。○○奏法、脱力、練習法・・・等々。でも誰が目的を教えてくれるのだろう?その曲を弾きこなしたい、それはそう。つっかえてばかりとか、パッセージが崩壊だらけでは、つまり手段に問題があったら目的には達せない。そして手段の不備は目立つのだ。目的は隠されている・・・そしていつのまにか手段が目的化されてしまう。でも弾きこなすことは、あくまでも手段なのでは?

でも考えてみれば、最初にその曲と出逢った時、心が動き、弾いてみたいと感じた瞬間は、何か目的のようなものに触れた時なのではないだろうか?手段ではなく目的に触れたから、だから自分も弾きたくなった。楽譜を開いた瞬間に目的ではなく、手段だけを見つめてしまう。長い間の習慣からそれさえも普通のことと勘違いしてしまう。弾けるようになる・・・は目的ではなかったら?それは手段だったら?

手段だけが強調されたような、手段が目的化されたような演奏って多くないだろうか?「とっても上手なのに心に響かない」のような演奏。あるいはその演奏の目的が自分のそれとは異なっている場合も心は動きにくいのではないだろうか?「卓越された素晴らしい演奏なのは分かるけれど、何故か心に響かない」のような?ただ弾いているだけではないのは充分に感じるけれど、何故か心に響かない・・・

目的は最初の段階で感じる。曲を聴いて泣きたくなるほど、あるいは浮き立つような・・・そんな幸福感を感じる。あるピアノ曲と出逢った時、「弾いてみたい」と感じる。触れた瞬間に手段に翻弄される。それはそうなのだ。難しい曲なんだから。でも目的は隠れてしまうけれど、その人の中で消滅してしまうわけではないはずだ。

何故その曲を弾きたいと自分は感じたのだろう?

流暢に弾けるようにするのが目的なのか?

ピアノが上手になりたいから弾いているのか?

聴いている人が涙してしまう演奏を自分でも・・・と思うのは傲慢なのだろうか?

kaz




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