オペラは芸術か、娯楽か?
オペラはもちろん好き。けれども実演に接する機会はほぼ皆無。理由としてはお値段が高い。もちろんオペラは総合芸術だからお金が掛かるのは理解できる。ピアノ使用料、調律代、ホール使用料・・・とシンプルにはいかないのだろう。でも「家賃か???」と思うほどの値段ってどうなのだろう?ピアニスト同様にオペラ歌手も現代スターは、往年系と比較すると小粒のような?
「日本人の公演を聴けばいいじゃない?」それは思った。アーティストは聴衆が育てる・・・みたいなところもあるだろうし。でもヴェリズモ系のオペラだと声量という点で気になるところはあるし、ブッファ系は、それはそれでビジュアル的に(感覚的に?)辛いものがある。受けないコント・・・みたいな、身の置き所がないような気分というのだろうか?
ピアノのような原典崇高主義のようなものはオペラには少ないように感じる。オペラには慣例というものがある。楽譜に記載されていなくても、ヴァリアンテをつけるのは常識のような?それでも一時はオペラにも原典主義、ザハリヒ傾向の時期があった。作曲者が書いた譜面そのものを再現・・・みたいな?でも当時のスターのために書かれたどうでもいいようなアリアまで復活させるような動きは現在は収まったようだ。慣習としてカットされたズンタカタッタ的なアリアは、昔のようにカットされるようになった。いいことだと思う。
歌手の妙技を聴くのか、それとも曲そのものを味わうのか?ピアノよりはオペラ(歌曲はまた別のような?)の方が今でも妙技系の分野だと思うけれど、それでも昔とは変わってしまったところもある。
かつては「マリア・カラスのノルマ」のような言い方をされた。「カラスの椿姫」とか。現在は指揮者の名前が先に来る。「レヴァインのカルメン」のように・・・
この傾向はまだ続くかもしれない。オペラハウスを揺るがすような大物カリスマ歌手が出現すれば、また歌手の名前が先にくるようになるのかもしれない。
この映像は、おそらくメトでの公演。「レヴァインのフィガロの結婚の舞台」ということになる。フィガロ役にブリン・ターフェル、スザンナ役にバルトリ・・・とスターを揃えている。でもこれは「ターフェルのフィガロの結婚」ではなく「レヴァインのフィガロの結婚」だ。
劇進行というのかな、オペラというアンサンブルとして聴くと、レヴァインらしくキビキビ系の演奏だと思う。躍動感もありいいのではないかしら?でもアリアの楽しさ、歌手の妙技性というようなものは薄れてしまっているように感じる。
有名なフィガロのアリア、「もう飛ぶまいぞ この蝶々」、ターフェルとしてはサクサクと歌っているというか?もうちょっとなんとかならなかったのだろうか?でもアンサンブルとしてはこれでいいのかもしれない。全体的、かつ総合芸術的に聴いてしまえばこれでもいいのかも。行進曲風の特色はここで出しているし。
でも僕は「歌が聴きたいの~」というところがある。歌手の妙技を聴きたいの・・・
ターフェルのフィガロのアリアはかなり不満。でもこれはブリン・ターフェルの歌がどうこうというよりは、オペラをどう捉えるかということにつながってくるのかもしれない。
イタリアの田舎のオペラ劇場を体験したことがある。歌手たちやオーケストラ、むろんスカラ座・・・のようなわけではなかったけれど、正直「随分と庶民的だな・・・」などと感じたりした。庶民の娯楽?地元出身の頑張っている歌手に声援が多かったり、未熟でもフレッシュな若手には、たとえ高音でひっくり返っても「いいよ、いいよ、あんたはまだこれからでしょ?」的な温かさがあったり。
もしかしたらオペラって、おハイソな人たちの社交の場というだけではなく、一般庶民の娯楽の場でもあるのでは?これはクラシック音楽そのものにも言えることなのかもしれない。
kaz

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「日本人の公演を聴けばいいじゃない?」それは思った。アーティストは聴衆が育てる・・・みたいなところもあるだろうし。でもヴェリズモ系のオペラだと声量という点で気になるところはあるし、ブッファ系は、それはそれでビジュアル的に(感覚的に?)辛いものがある。受けないコント・・・みたいな、身の置き所がないような気分というのだろうか?
ピアノのような原典崇高主義のようなものはオペラには少ないように感じる。オペラには慣例というものがある。楽譜に記載されていなくても、ヴァリアンテをつけるのは常識のような?それでも一時はオペラにも原典主義、ザハリヒ傾向の時期があった。作曲者が書いた譜面そのものを再現・・・みたいな?でも当時のスターのために書かれたどうでもいいようなアリアまで復活させるような動きは現在は収まったようだ。慣習としてカットされたズンタカタッタ的なアリアは、昔のようにカットされるようになった。いいことだと思う。
歌手の妙技を聴くのか、それとも曲そのものを味わうのか?ピアノよりはオペラ(歌曲はまた別のような?)の方が今でも妙技系の分野だと思うけれど、それでも昔とは変わってしまったところもある。
かつては「マリア・カラスのノルマ」のような言い方をされた。「カラスの椿姫」とか。現在は指揮者の名前が先に来る。「レヴァインのカルメン」のように・・・
この傾向はまだ続くかもしれない。オペラハウスを揺るがすような大物カリスマ歌手が出現すれば、また歌手の名前が先にくるようになるのかもしれない。
この映像は、おそらくメトでの公演。「レヴァインのフィガロの結婚の舞台」ということになる。フィガロ役にブリン・ターフェル、スザンナ役にバルトリ・・・とスターを揃えている。でもこれは「ターフェルのフィガロの結婚」ではなく「レヴァインのフィガロの結婚」だ。
劇進行というのかな、オペラというアンサンブルとして聴くと、レヴァインらしくキビキビ系の演奏だと思う。躍動感もありいいのではないかしら?でもアリアの楽しさ、歌手の妙技性というようなものは薄れてしまっているように感じる。
有名なフィガロのアリア、「もう飛ぶまいぞ この蝶々」、ターフェルとしてはサクサクと歌っているというか?もうちょっとなんとかならなかったのだろうか?でもアンサンブルとしてはこれでいいのかもしれない。全体的、かつ総合芸術的に聴いてしまえばこれでもいいのかも。行進曲風の特色はここで出しているし。
でも僕は「歌が聴きたいの~」というところがある。歌手の妙技を聴きたいの・・・
ターフェルのフィガロのアリアはかなり不満。でもこれはブリン・ターフェルの歌がどうこうというよりは、オペラをどう捉えるかということにつながってくるのかもしれない。
イタリアの田舎のオペラ劇場を体験したことがある。歌手たちやオーケストラ、むろんスカラ座・・・のようなわけではなかったけれど、正直「随分と庶民的だな・・・」などと感じたりした。庶民の娯楽?地元出身の頑張っている歌手に声援が多かったり、未熟でもフレッシュな若手には、たとえ高音でひっくり返っても「いいよ、いいよ、あんたはまだこれからでしょ?」的な温かさがあったり。
もしかしたらオペラって、おハイソな人たちの社交の場というだけではなく、一般庶民の娯楽の場でもあるのでは?これはクラシック音楽そのものにも言えることなのかもしれない。
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