FC2ブログ

ピアノのある生活、ピアノと歩む人生

「ピアチェーレ」代表の私的ブログ

鋼鉄と真珠 

 

かつてヴァン・クライバーンはこう言われたそうだ。「彼はまず熱情ソナタを弾いて、また熱情ソナタを弾き、休憩後に再度、熱情ソナタを弾く」実際にそうであったわけではなく、コンクール後のクライバーンのレパートリーの知的な追及の無さのようなものを批判したのだろう。あまりに人気がありすぎた。アイドル化してしまった。いつも華やかな曲を求められ、ピアニストとして成長していく機会を与えられなかったということなのだろう。聴衆はラフマニノフやチャイコフスキーの協奏曲を求めはしたが、彼にモーツァルトの協奏曲は求めなかった。そしてクライバーンは消えていった・・・

僕が子どもの頃は、シューベルトの長大なソナタをリサイタルで演奏するなどということは珍しかったように思う。その後、全曲もの、企画的リサイタルがザハリヒな風潮と共にもてはやされる傾向が強くなったように思う。「メシアンの夕べ」とか「○○ベートーヴェン後期ソナタを弾く」「平均律全曲リサイタル」のような?知的要素、深遠なもの、これらのものが流行るにつれ、華やかなショウピースのような曲は敬遠される傾向となった気がする。往年のピアニストが好んで弾いた「シュトラウス・パラフレーズ」的な曲は、どこか「軽薄である」的な扱いを受けるようになったように思う。「今時そんな曲、誰も弾かないよ」みたいな?

辛うじて「発表会御用達曲」として残っていて、曲そのものは有名だが、ピアニストたちがリサイタルではあまり演奏しなくなった曲もある。メンデルスゾーンの「無言歌」とかウェーバーの「舞踏への勧誘」とか。ピアニストが大真面目に演奏するなんて、最近はあまりないような?ポリーニの「舞踏への勧誘」とか、あまり(全く?)想像できない。

より学究的に、より「お芸術」的に、より深遠に、より原典に忠実に・・・

時代の流れと言ってしまえばそうなのだろう。ただピアニストたちのピアニズムそのものが変化したというのも、もてはやされレパートリーの変化に関係しているような気がする。「より速く」「より強く」「より重厚に」・・・

ピアノという楽器そのものが変化したのかもしれない。敏捷で繊細な、そのピアニスト特注・・・のようなピアノから、誰が弾いても弾きやすい、華やかな音が広大な会場でもカーンと鳴るようなピアノが主流になっていった?

ピアニストという職業が、トータル的音楽的教養といったものから、より細分化された。つまり演奏をする、弾くということが専門家された、作曲からの分離、ピアニストの完全分業制・・・

往年のピアニストたちの音、非常に軽い音のように感じる。現代のピアニストたちの音は重厚だ。それに慣れてしまうと違和感を感じないのかもしれないが、個人的には鋼鉄のように重厚なメカニズムのように感じる。バリバリ・・・のような?

往年系の人たちは、バリバリ・・・というよりは、どのような難所でもコロコロとした音がする。つまり軽いのだ。鋼鉄メカニックというよりは、真珠の連なりのような?どのような超絶箇所でも汗や肉体的困苦を感じないのだ。

モリッツ・ローゼンタールも同時代の他のピアニストたちと同様に、シュトラウスものを編曲し、自ら演奏している。この種の曲は、例えばチャイコフスキーの協奏曲にあるような猛烈弾丸オクターブだと曲の良さが出ない。鋼鉄シュトラウスなんて・・・

「えっ、もしかしてそこオクターブの連続なの?えっ?」みたいな魅力?

レパートリーの変化とピアニズムの変化、どこか関連しているのかもしれない。

kaz




にほんブログ村


ピアノランキング
スポンサーサイト



category: 未分類

tb: --   cm: 0

△top

コメント

 

△top

コメントの投稿

 

Secret

△top