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ピアノのある生活、ピアノと歩む人生

「ピアチェーレ」代表の私的ブログ

音型美と音力 

 

コンクールでの第一関門、つまり一次予選、ほとんどのコンクールでは「バッハ」「エチュード」が課せられているような気がする。音大の入試なども同じ。これって指が動くとか、そのような面を聴くというよりも、特に国際コンクールの場合、基本的な音力を判断しているのかなとも感じる。

バッハ、例えばプレリュードとフーガみたいな曲の場合、同じ音型の連続であったりする。中間部でショパンのようにカンタービレで歌うとか、スクリャービンのように幅のあるダイナミクスによる魅力で圧倒するとか、そのような音楽ではないので、音の質、根本的な音力、目力ならぬ音力が必要となってくるのでは?「いつも同じパターン」という難しさ?

華やかなコンチェルトの競演である本選よりも、むしろ「バッハ」「エチュード」の競い合いである一次予選を聴くと、いろいろと感じることがあるかもしれない。ドレとドソではエネルギーが異なる、長い音符と短い音符でも異なる。休符は単なるお休みということ?つまり音の連なりのシェイプを感じ取り、表現できるか?まさに導入期でなされるべき基本的なもの、それが顕著に表れるのがバッハであり、エチュードなのかもしれない。

ドライな音質でポツポツと・・・丹念にさらい込みました・・・このようなバッハって「沢山練習しましたけど何か?」的なものを感じてしまう。音そのものに威力というか、魅力が欲しいし、音型の美をサウンドとして感じないと聴き手は(僕は?)「だから?」と思う。

日本人の演奏って、パラパラとよく弾けるし、ミスもないけれど、なんだか心に響かない、このようなことは大昔から言われてきた。そしてそれは、西洋音楽の歴史がないとか、文化の違いとか、控えめな国民性とか、そのようなことが根本にあるように言われてきたように思う。

もしかしたら、導入段階から「音型美」「ドレとドソの違い」のようなものを感じ取り、実際に表現するというものが落ちてしまっていることが要因なのかもしれない。そして「感じ取り表現する」ということは、上級になってから、一応弾けてから・・・みたいな風習が根付いてしまっているからかもしれない。

ロシアの中堅どころ・・・という感じのピアニストだろうか?デミジェンコは剛腕というイメージのピアニストが多い旧ソビエト出身のピアニストの中では、リリカルな魅力を感じるピアニストだ。

この演奏、音力があり、音型美に満ち溢れているように思う。禁欲的にポツポツと・・・ではなく音が生きている。

kaz




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