FC2ブログ

ピアノのある生活、ピアノと歩む人生

「ピアチェーレ」代表の私的ブログ

不寛容に不寛容だったピアニスト 

 

シフラのリストは名演が多い。特に「ハンガリー狂詩曲」や自身がソロに編曲したブラームスの「ハンガリー舞曲集」などの演奏を聴くと、ハンガリーの血・・・みたいなものを感じるかもしれない。実に見事な歌いまわし、そしてパッションを感じる。

突然話題は飛ぶけれど、もし、あなたの息子がこう言ったらどう感じるだろう?「母さん、結婚を前提としてお付き合いしている人がいるんだ。一度会って欲しいんだ」「どんな人なのかしら?是非家に連れてきなさいよ」「驚かないで欲しいんだけど、彼女、日本人じゃないんだ」「えっ???」「あの・・・エジプト人なんだ」「えっ???」

「どこの国の人だろうと関係ないじゃない?あなたが好きになったんだから・・・」脳内がこうなるまでには、どんな母親でも時間が必要なのではないか?

シフラの伴侶となった人はエジプト人だった。今でさえ「えっ?」となると思うが、当時のハンガリー、それも戦争の影が押し寄せるような不安定な時代のハンガリーで二人は結婚した。シフラがロマの血を引き継いでいるのは有名な話だ。どう考えてもロマということで、数えきれないような偏見、差別を受けてきたと想像できる。そのような経験が「自分は絶対にそのような差別をする人間にはならない。僕は一人の人間として彼女を愛した。彼女はエジプト人だった。それだけのことだ。愛する人と共に人生を歩む、当たり前のことだ」シフラの根本にはこのような想いがあったと考えられる。

リスト音楽院への入学も微妙なところだったらしい。一応「年齢が低すぎるので」というのが理由となっているし、実際当時のリスト音楽院には年齢制限下限のようなものもあったらしいが、シフラがロマの血を受け継いでいたということも入学を渋る理由であったのではないかと想像する。そこに鶴の一声を発した人物がいる。エルンスト・ドホナーニ。「才能があるのだから、その子を入学させなさい」ドホナーニは、後に多くのユダヤ人音楽家を匿った人物としても知られている。当時の世相だったからこそ、偏見、差別に真っ向から向き合う人物もいたのかもしれない。

もともと順調なピアノ修業から始まった人生ではなかった。非常に貧しかったし、姉が働き始めて、やっとレンタルのピアノ(!)がシフラ家にやってきた。病気がちだったシフラは姉のピアノの音色を聴いて成長したという。

戦争、そして差別への反抗、この二つがシフラの運命を大きく狂わせることになった。ナチスドイツへの協力を拒んだ音楽家は、その後苦渋を味わうこととなるが、シフラも同様だった。

爆弾の破裂音を近くで聞いてしまったために、彼の耳は半分しか機能しなくなった。CDに残されている数々の名演、片耳で演奏しているということになる。後に捉えられ、刑務所で重労働を課せられた時、手の筋を痛めてもいる。そして徒歩での命懸けの国境越え・・・

そして長期間のブランク・・・

シフラは、考えようによっては「再開組」「やり直しピアノ」のピアニストでもあるのだ。

「まぁ、シフラのような天才だから弾けるようになったのよ」

そうかもしれないが、こう考えてみてもいいかもしれない。「彼には音楽への熱い想いがあった。情熱や憧れがあった。それがシフラをピアニストにした」と。

kaz




にほんブログ村


ピアノランキング
スポンサーサイト



category: 未分類

tb: --   cm: 0

△top

コメント

 

△top

コメントの投稿

 

Secret

△top