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ピアノのある生活、ピアノと歩む人生

「ピアチェーレ」代表の私的ブログ

もしもピアノが弾けたなら 

 

大人のためのピアノコース、ピアノ教室にもこのようなコースが増えた。「昔習っていたけれど、もう弾けないから」あるいは「この年齢で始めてみようかしら?」みたいな人が昭和時代よりも増えたということなのだろう。教室側の経営戦略(?)としても子どもだけではなく、大人に対象を広げるというのは当然の流れだとも思う。子どもは減っていく、これからますます減っていく・・・

「大人のピアノ」という言葉、市民権を得たような気がする。でもおかしくはないだろうか?なぜ「子どものピアノコース」という名称は一般的ではないのだろう?それは、まだまだピアノを習う、ピアノ教室=子どもの世界・・・と一般的には認識されているからではないだろうか?なので、わざわざ「大人のピアノ」と別枠で表現する。

ピアノの作品、ピアノという楽器そのもの、本来は大人のためのものだったのではないだろうか?むろん、小さな頃から始めなければ・・・という面はあるのだろうが、それでも「子どもピアノ」はピアノ人生のピークではなく、あくまでも前哨戦、序章、前菜・・・なのでは?ピアノのメインは「大人ピアノ」であるはず。

街のピアノ教室、つまり「現場」では、そのことは実践されているのかもしれない。「ああ、今辞めちゃう?もう少し頑張ればいいのに・・・これからなのに・・・」と歯がゆい思いをしているピアノ教師は多いと思う。「部活が・・・」「進学が・・・」

やはり中学進学ということが大きいのだろうと思う。「せめて中学時代を終えるまで続けてくれれば・・・」そう願っている教師は多いのだろうし、そのような問題(?)に関して、具体的に何かしらを実践している教師もいると想像する。でも小学時代を中学時代にすることは目的ではなく、あくまでも手段なのだと思う。では目的は?

あるテレビドラマの主題歌として日本全国に流れヒットした曲、「もしもピアノが弾けたなら」は1981年の曲。もうそんなに昔なんですねぇ。西田敏行が歌っていたと記憶している。

現在ピアノを習っている子どもたちのことを考えた時、辞め時引き伸ばしが手段なのだとしたら、目的は、その子が40歳、50歳になった時に「もしもピアノが弾けたなら」と絶対に思わせないことだろうと思う。昔、ピアノを習っていた、でも大人になった時、さらには高齢と言われる年齢になった時、ピアノが弾けない、これは不幸なことなのではないかと思う。今、子ども時代にピアノを習っているのは、教則本を進ませるためでもなく、難曲を弾くためでもなく、コンクールで賞状をもらうためでもなく、30年後、40年後にも、生活の中にピアノ、音楽が自然に入り込んでいるということ、それが目的なのではないだろうか?

この動画の方はジェフさん。アルゲリッチとホロヴィッツのシューマンを聴いて感銘を受けた。「ああ、自分も内面の熱い何かを形にしてみたい、音にしてみたい、彼らのようには弾けないけれど、作品に、そして自分の内面に光を当てて、音の形にしてみたい・・・」そう思った。弾いてみたい・・・と。表現してみたい・・・と。

その時に「もしもピアノが弾けたなら」ではなく、自分なりに何かができる、大人になった時にもできる、それが「子どものピアノコース」の一つの目的ではないだろうか?

「もしもピアノが弾けたなら」の作詞は阿久悠だったんですね。

♪ だけど ぼくにはピアノがない
  きみに聴かせる 腕もない
  心はいつでも 半開き
  伝える言葉が 残される
  ああ  残される

kaz




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