FC2ブログ

ピアノのある生活、ピアノと歩む人生

「ピアチェーレ」代表の私的ブログ

心の蓋を閉じない 

 

この動画によれば、クラシック音楽が好きで、聴いたり演奏したりして日常生活に溶け込んでいる人の割合は3パーセントなのだそうだ。残りの97パーセントの人、あってもいいけど別にクラシックなんてなくてもいいという人。さらに、全く接点がない、クラシック音楽に嫌悪感はないけど、聴こうなんて、親しもうなんて思わないという人。そして、クラシックは苦手、自分はそのようなものを聴く耳も、感受性もないから・・・そのような人たちがいる。

もしかしたら演奏者に問題があったのかもしれない。演奏者にある種の情熱が欠けていて、達者だけれど、心に何故か響かなかった。本当は聴く人の問題ではないのに、聴き手は自分のせいだとしてしまう。「あんなに上手だし、難関の学校も出ているし、何も感じない自分のせいなんだ。まっ、クラシックなんて高尚なものは分からない。自分は教養なんてないし・・・」となってしまっているのかもしれない。

もしかしたら、クラシック音楽は万人がその魅力を感じられるものだとしたら?子どもだろうと、作曲家や曲の知識なんて皆無な人でも。もしかしたら、クラシック苦手意識は、聴き手ではなく、演奏に問題があった可能性は?聴き手が「どうせ・・・」と心を閉じてしまい、その意識すらないのだとしたら?音楽なのか?演奏なのか?自分自身の感性、知識なのか?どこに問題があるのだろう?

本当にクラシック音楽は3パーセントという選ばれた人のための音楽なのだろうか?

専門と趣味、例えば音大受験コースで入試にあるような課題をこなしていく必要があるのは分かる。当然「聴音って何ですか?」と当日知るのであったなら、確実に受験失敗だろう。準備、慣れは必要だ。そのようなものではなく、趣味も専門も共通しているのが、ピアノを弾くということ。その部分のレッスンでは、専門と趣味とで分かれてしまうものだろうか?「あなたは趣味だからこう」とか「専門に学ぶからこう」とか、何か違いがあるのだろうか?

「なんだかただ弾いているだけで、自分でも素敵じゃないなと思うんです」教師の反応は趣味と専門とで変化するのだろうか?「あなたは趣味なんだから、そんなに苦労しなくてもいいじゃない?」みたいなことは世のピアノレッスンでは本当にないのだろうか?逆に○○音大を受験するんだから・・・と必要以上のガンバリズム、修練色を与えてしまっていることは本当にないのだろうか?

愛する人が亡くなってしまった、もう二度と声を聞くこともない。ペットでもいい。その深い哀しみ、喪失感は万人が持っているものだろう。子どもだろうと大人だろうと。もし、その喪失感を音楽、自分の演奏に乗せてみたいと思ったら?その哀しみを表出して誰かと手をつなげたら?「辛いんだ」「そうね。辛いわね」それを演奏で具現化できたなら・・・

それは趣味だとできないのだろうか?専門に鞍替えしなければ、そのような願いは叶わないのだろうか?

そもそも同じ曲を勉強しているとして、趣味と専門とで指導内容が変わっていいのだろうか?コンクール向きの難曲とバイエルとで根本の指導内容は変わるのだろうか?「素敵に弾きたいの」という想いに応えるということ・・・その部分は趣味と専門、曲のメカニカル難易度によって指導内容は変化するのだろうか?

どうせ教養も感性もないからクラシックなんて分からないし・・・

どうせ才能とか感性なんてないから素敵になんか弾けないし・・・

もし、気づいていないだけ、知らないだけ、教えてもらっていないだけ・・・だとしたら?

もし「素敵に弾く」ということがピアノを習っている人、万人に可能なことだとしたら?


「このような部分を弾くと手が痛くなっちゃって」「大人から始めた人は仕方ないと思うわ」
「なんだか音符が並んでいるだけのような?そこからどうしていいのか分からないんです」「そうねぇ・・・どうしたらいいのかしらね?大人なんだから自分で考えて・・・」

これはピアノ仲間が先生から実際に言われた言葉だ。

素敵に弾けない・・・才能がないんだわ、感性とか無縁だし・・・

もしかしたら、知らないだけかもしれない。その方法を・・・

kaz




にほんブログ村


ピアノランキング
スポンサーサイト



category: 未分類

tb: --   cm: 0

△top

コメント

 

△top

コメントの投稿

 

Secret

△top