ピアノのある生活、ピアノと歩む人生

「ピアチェーレ」代表の私的ブログ

自由を求めて 

 

「僕は自由が欲しいんだ。このままでは生きていけない」「ではお前はどうするんだ?」「この国はもう終わりだよ。アメリカに行きたい。父さんも一緒に来て欲しい」「私は・・・私はここ、クラクフで死にたい。ポーランドに残りたい」

この部分は僕の想像。Hは脱出前の、あれこれを話したことはなかったから。でも空港での場面は、なぜか話してくれた。

「お前の選んだ道なんだから、私のことは気にせず、堂々と自由を求めなさい」「もう会えないのかな?」「多分・・・この国が変わらない限り・・・さぁ、このまま真っ直ぐ歩いていって飛行機に乗りなさい。こちらを振り返ってはいけないよ。約束しなさい。振り返らずに飛行機に乗る、いいね?」

Hが難民としてアメリカに渡ったのは、1980年代の後半だった。1989年にはポーランドで自由選挙が行われ、連立内閣誕生。これは東欧各国の雪解けへの、一つのきっかけとなった。でも、ある時期を境に急激に世界が変わったわけでもないのだろう。Hは待てなかったのだろうと思う。

1980年、ポーランドでは労働者側から大きな動きがあった。ストライキを強行し、民衆レベルで圧制に対抗しようとする。僕も日本で「連帯」のことは知った。グダンスクという港町で動きがあると。「連帯」の指導者は、造船所の電気工であるワレサという人であることも。翌年、ヤルゼルスキ政権下での戒厳令。連帯は地下活動を余技なくされる。

この頃、日本のテレビでも、ポーランドの街に戦車、軍、泣き叫ぶ市民・・・みたいな映像が流れ、僕もよく覚えている。物資が滞り、人々が行列している様子も。ソビエトでも同様で、モスクワの商店は空状態で、やはり市民は行列をしている。僕は、極寒の中、並んでいる人々を見て、「共産主義も行き止まりなのかな」などと日本で暢気に感じていたものだ。同時に「何故民衆が苦しむのだろう?」ということが理解できなかった。何かがおかしい・・・そう感じたものだ。

Hがニューヨークで亡くなった時には、たしかポーランドもEUに加盟していたと思う。帰ろうと思えば帰れたのかもしれないが、彼はそれはしなかった。帰りたくなかったのかもしれない。祖国に対しては、日本人の僕にさえ分かるほど、愛憎入り混じった感情を持っていたようだ。嬉々としてポーランド料理を作り、僕に故郷自慢をし、ワルシャワのナイチンゲール、ボクナ・ソコルスカの歌声を僕に聴かせたり・・・そうかと思うと、「あの国はね、もうダメなんだよ・・・」と呟いたり・・・

1981年から1989年、この間に海外に脱出したポーランド人は64万人にもなるそうだ。Hもその中の一人であった。

簡易なポーランド史の本を一冊読むだけで、ポーランドという国は分割、侵略されてきた歴史なのだと分かる。平和に人々が暮らしているのは、ここ最近なのではないか?そんな印象を持つ。

病弱だったショパンは、ワルシャワ蜂起の際に、実際に帰国して武器を持って戦うということはなかったし、できなかったのだと思うけれど、翌年ワルシャワがロシアに占領されたことを知り、手紙にその想いを書いている。シュトゥットガルト手記と呼ばれる書簡だ。こう書いている。

「僕はモスクワ人一人殺すことができなかった。大地は別の世紀の人間を呑み込め。僕は武器ひとつ手にせず、ピアノ相手に苦しんだり、悲観にくれたりしているだけだ。いったいそれが何になる?」

ここには青白い月の光の中で、夢見るようにノクターンを書くショパン・・・・ではなく、ポーランド人としてのショパンがいるように感じる。

kaz




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