ピアノのある生活、ピアノと歩む人生

「ピアチェーレ」代表の私的ブログ

先なのは技術?表現? 

 

飛騨高山美術館に行ってきた。飛騨高山というと、いかにも外国人が期待するような日本・・・というイメージで、まさにその通りの街なのだが、街の中心から少し離れた高台に、日本人が期待するような西洋の美術館が存在していた。フランスのタイヤ会社の評価星が3つということで、もしかしたら混んでいるのかなと思ったが、貸し切り状態で、静かに鑑賞できた。この美術館の売り(?)はガラス工芸作品。ルネ・ラリックとかエミール・ガレ、あとはティファニーのランプとか・・・

「ガラスって綺麗だよね」ぐらいの知識、感覚しか持っていない。絵画ならまだしも、ガラス工芸は分からない、そう思っていた。そのような僕が立ち止まってしまった作品群があった。モーリス・マリノという人の作品。知識を蓄積して、初めて理解できるようなこともあるのだろうが、知識を持たなくても訴えてくるものもある。なにか強靭な表現力というもの、むせ返るほどのエネルギーを感じてしまったのだ。

モーリス・マリノ、最初は絵画を描いていたのだそうだ。カテゴライズすれば、マティスのような「野獣派」ということになるらしい。ほぼ独学で絵画というものを描いていたそうだ。そのマリノ、ある時ガラス工芸に魅せられてしまった。ガラス職人の手によって、様々に表情を変化させるガラスという物体に。絵画も独学だったが、ガラス工芸も一から独学で始めた。空気を入れて形を造形するとか、そのような基本から始めた。その時マリノは30歳になっていた。いくらなんでも遅すぎる転身だったのではないだろうか?

作り手のエネルギー、表現したいというエネルギーを幾光年、ヨーロッパから遠く離れた飛騨の地で、3代以上続く江戸っ子である僕が感じたという不思議さ。

表現したいという爆発的な想い、それは地道に修練を重ね、技術を身につけ、さらにある種の才能が備わった人のみが持ってもいいものであり、素人は素人らしく、表現などは考えず、与えられた課題をこなしていればいいのだ。プロとは違うのだから。技術も備わらないのに、表現したいだなんて身の程知らずだ・・・

技術→表現

そうだろうか?モーリス・マリノのガラス作品の前で無数の疑問符が頭の中を駆け巡った。たしかに技術というものを介さなければ表現として伝わらないと思う。なのでピアノも「まず弾けてから・・・」となりがちなのだろう。表現ってどこか敷居が高い。弾けもしないのに表現だなんて・・・みたいな?

そうだろうか?

むしろ順番としては、表現→技術なのではないか?

こうしたい、表現したいという爆発しそうな感覚が自分の中にある。生まれ出て、すぐに技術を備えている人なんていない。なので技術を身につける必要はある。でも表現したいというものを持たずに、あるいは「私はまだまだ弾けないのでぇ・・・」と内なる表現意欲、欲望を先送りして、技術を追い求めることなんて難しいのではないか?こうしたいというものがあって、技術の必要性を感じるものではないだろうか?ひたすら技術を追っていれば、霧が晴れるように表現というものが自動的についてくるのだろうか?

チェルニー50番を合格すれば、自然とその技術に見合った表現が景品のようについてくるわけではない。表現したい、でも足りないものがある。今の技術では表現できない。だからチェルニーを頑張っている・・・というのが本来で、チェルニーを弾けば表現力が自動的についてくるわけでもないような気もする。

モーリス・マリノの作品の前で浮かんだ疑問符・・・

kaz




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