ピアノのある生活、ピアノと歩む人生

「ピアチェーレ」代表の私的ブログ

いつでも、どこでも、何があっても・・・ 

 

まずは楽譜を読め、すべて楽譜に書いてある。自分の内側の感情など関係ないのだ、まずは楽譜に忠実に・・・

忠実に弾けば、忠実に楽譜を読めば、それは音楽になる。理屈とすればそうなのだろうが、では人によって演奏が異なるというのは何故だろう?譜読みの浅さ、深さの違い・・・ということもあるのだろうが、ではコルトーとミケランジェリでは同じ曲でも演奏は異なるのはどうしてだろう?ミルシテインとシェリングでも演奏は異なる。その人ならではの魅力というものはある。なぜ皆同じにはならないのだろう?同じ楽譜なのに。同じ音符の連なりを再現しているはずなのに・・・

1993年のプラハでのフィギュアスケート世界選手権、アメリカのナンシー・ケリガン選手、優勝候補と言われながらフリーで不安定な演技になってしまい、まさかの台落ち。そこで彼女のコーチ陣は考えた。来年はオリンピック、何かを変えなければ・・・と。徹底したのは「いつでも、どこでも、何があっても」の徹底。いつでも同じ演技ができるようにということなのだろう。同じようなことはスポーツの世界ではよくあるのかもしれない。昔の話だが、かつて(今も?)女子体操はルーマニアが非常に強かった。あのナディア・コマネチが活躍していた頃だろうか。何かで読んだのだが、やはり「いつでも、どこでも、何があっても」の徹底があったのだと記憶している。起き抜けに演技をしても成功できる・・・みたいなところまで徹底する。

このスポーツのような感覚を音楽にもそのまま持ち込んでしまうのはどうなのだろう?そもそも我々が弾く作品の作者、つまり作曲者は不安定な人たちだったような気がするのだ。感情に流され、普通の人だったら持ちこたえるようなことも、ヘナヘナな倒れ込んでしまうような不安定さを抱えていた、だからこそ音楽が生まれた・・・

楽譜に忠実、自分の感情は排除、作曲者ほどではないにしろ、演奏する側も人間である以上、「いつでも、どこでも、何があっても」的にキッパリと楽譜、自分、感情というものを分けることも難しいのではないか?

最大の人生の悩み、それはスーパーで鰺にするか、鮭にするか・・・このような人生だったとしたら、安定はしているだろうが、味気ないもののように思える。感情の使い場所がないもの。波乱万丈人生を自ら望むわけではないけれど、感情不使用の生活というものもどうなのだろう?そもそもそんな人生だったら、音楽なんて人生から必要なくなるような気もする。

心の琴線に触れる、まさにこれは自分の中の感情に触れるということではないか、ため込んできた感情に音楽、演奏が触れてくる。その自分の感情というものを排除してしまっていいものだろうか?機械にでもなれと?

クラシック音楽、聴き手側と供給側、供給側に教育というものも含めて考えてみると、供給側は、ザハリヒな方向性に頼りすぎているように個人的には感じる。聴き手は、もっと生々しいものを求めてきているのかもしれない。今の世の中、辛いもの・・・

kaz




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