ピアノのある生活、ピアノと歩む人生

「ピアチェーレ」代表の私的ブログ

ロイ先生の音楽帳 

 

基本的には人様の練習を聴く機会というものはない。練習会などで、出来上がり状態を聴くことになる。そして感じる。「どうしてあのように歌えるのかしら?」と。自分は、どうもただ弾いている、音符を並べているような、そんな演奏しかできないのに・・・

「これって音楽性の違い?感性?才能ね。まっ、そんなもの自分にはないので・・・」

音楽的(ミスなどはあっても)な人の演奏ってイタリア人の会話みたい。フランス人の愛の囁き。でも自分のは、まるで電話の自動音声のような?音符は読めるのよ~、ドだってレだって理解できてる。音は並ぶのよ~、練習もしてるのよ~、なんでそうなるの?

過去に戻ってみる。誰でも最初は導入期だったのだから。もしかしたら、音符を並べ、一応弾けたら合格、そして次の曲・・・という歴史(?)はないだろうか?その習慣、歴史が染みついてしまっていて、大人になってからも無意識に「並べ譜読み」をしてしまう。並べることができて、初めて表現を考えるのような?そのようなものが染みついてしまっている。「一応弾けた、さあ、表現の段階ね」ここで、ふと思う。「習ってない・・・」と。そのようなことは習ってこなかった。「もっと感情を込めて~」とは言われてきたけれど、具体的には何をしていいのか分からない。習ってないし・・・

よく言われる。楽譜に忠実になのか、それとも自分の感情を優先するのか。そもそもこの発想そのものが、「一応弾けた」→「表現を考える」という図式からきているものなのかもしれない。発想転換。譜読みをするということは、楽譜にある表現をも拾っていくこと・・・と。譜読みが終わった、実はその時には表現なるものもあるのが本来の姿なのでは?

最初は音を読む。ドとレね・・・と。でもドレとドラは違うでしょ?「はい、音が違います」そうではなく、エネルギーが違うのでは?ここは二拍伸ばすんです。それだけではなく、二拍と一拍ではエネルギーは異なるのでは?長さによるエネルギーの違いを感じることが、表現というものになっていくのでは?そのようなものを拾うことが譜読みなのでは?

一つ一つの音や休符、集まるとシェイプが形作られる。モチーフと呼ばれたりする。そのモチーフが集まると、一つの流れの単位ができる。フレーズとか呼ばれる。そのようなものを意識した譜読みが必要なのでは?

最初にロボット音声のような、電話の自動音声のような譜読みをしてしまうと、最後までそのまま・・・ということはないだろうか?どこかに表現のための秘策のようなものを期待する。アッハ~ン、ウッフ~ンのつけかた・・・のような?そのような秘策はなく、譜読みの段階でそれは決まってしまうとしたら?

ショパンやリスト、ラフマニノフやプロコフィエフ、一応弾ける。でも音だけを並べているだけのような?そのような人がギロックやバイエルを弾いたとしたら、いきなりミューズの女神が舞い降りたような演奏をするだろうか?やはり「弾けてはいるけれど・・・」のような演奏になるのではないだろうか?違うかな?

ピアノって両手だし、つまり2段譜だし、音も休符も、とにかく多いし。単位を小さくして拾っていってみたらどうだろう?片手最小単位、美しく弾けているだろうか?

前の動画のロイ先生が、実に素晴らしい動画を作成している。彼はピアノ弾きのことを考えて、この動画を作ったわけでもないのだろうが、参考になるのではないだろうか?

譜読みの時、ここまで読んでいますか?譜読みって何だろう?

kaz




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