ピアノのある生活、ピアノと歩む人生

「ピアチェーレ」代表の私的ブログ

究極の講師演奏 

 

生徒にピアノを教えながら、自分も発表会で演奏する、つまり講師演奏。発表会前は生徒への指導、当日は会の責任者ということで、自分の演奏どころではなかった。頑張ってクラシックのソロを弾いたけれど、ハッキリ言って失敗だ。非常に苦しかった、ふと思った。「私ったらこんなに苦しんで・・・こんな私が生徒にピアノの楽しさを伝えられるだろうか?」考えた末、講師演奏はしないことにした。

ちょっと違うなとも思うし、かなり寂しいなとも思う。発表会の他にも、自分の演奏の場がある人は、何も忙しい発表会で弾く必要もないかもしれない。自分の演奏に集中するのは、別の機会の自分のリサイタルでもいいと思う。発表会は、生徒や会の進行などに集中する。

でも、発表会以外に自分の演奏を披露する機会のないピアノ教師も、意外と多いのかもしれない。日頃弾いていないピアノ教師という人が、もしいるのならば、講師演奏は相当心理的重圧があるだろうと予想する。

「じゃあ、お友達と連弾、ディズニーメドレーにしよう。今年の講師演奏はこれで決まり!」これもちょっと寂しいような?先生はソロ弾かないの?暗譜しないの?・・・と生徒は感じるかもしれない。

「ピアノの先生ってピアノが上手くて当然と思われている。それがプレッシャーで・・・」

果たしてそうだろうか?むろん、客席が不安、不穏になるような演奏では困るだろうが、例えば、講師演奏に内田光子とかトリフォノフのような演奏を期待するものだろうか?同じような演奏を期待しているわけでもないだろうと思う。

講師演奏ならではという演奏、生徒にとって自分の先生ならではの演奏と言うのかな、そのようなものってあると思うし、それはトリフォノフにはできないようなことなのかも?

ピアノの習いたての頃ってピアノは楽しい。「レッスン、楽しい!!!」でも徐々にそれだけではなくなる。仕事をしながら、ピアノを弾いている大人たち。正直、ピアノさえ弾かなければ、毎日の生活も楽になるのに、そう思う。でも、やめられない何かがある。それは楽しいということとも違うし、耐え忍ぶというものとも違う、不思議なもの。つまり、「なぜピアノを弾いているの?」という部分は、ピアノの先生が職業ピアニスト(?)よりも直に生徒に示すことのできるものであり、発表会の講師演奏というものは、そのような「なぜ弾くの?」ということを、教師自らが示すことのできる貴重な場なのではないかと・・・

ピッツバーグ在住のヴァイオリン教師、ロイ先生。クリティカルに(意地悪く?)聴けば、例えばヴェンゲーロフのような闊達な演奏ではないのかもしれない。でも音楽をする喜びをロイ先生の講師演奏から感じる。

もし、僕がロイ先生の生徒で、伸び悩んでいて「ヴァイオリンなんかやめようかな?」と思っていたとしたら、このロイ先生の講師演奏を聴いたら、おそらく「もうちょっとヴァイオリン、続けてみようかな」と感じると思う。ヴェンゲーロフのCDを聴いてもそうは多分思わないだろうとも・・・

音楽をする喜びは演奏を通して伝わるものだとしたら?「キャッ、楽しい」というものでもないし、根性で耐え忍ぶものでもない。なんだろうね?講師演奏しかできないものってあるのかもしれない。演奏後のロイ先生の満面の笑顔がその答えかもしれない。

kaz




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