ピアノのある生活、ピアノと歩む人生

「ピアチェーレ」代表の私的ブログ

日常の綾を積み重ねて・・・ 

 

ピアノを弾くということは、日常生活の中での「非日常性」というものを感じさせるものなのだろうか?たしかに人前で演奏、発表会などで、舞台の上で、しかもドレス姿で多くの人(椅子?)の前で演奏するなんて、非日常的体験ではあるだろう。ドレス姿の人が、実は朝、子どもの弁当作りで塩鮭を焼いていたり、ゴミ出ししていたりするのかもしれない。発表会だと夕食も作れなかったりして、夕食のカレーを家族のために煮込んできたのかもしれない。

そのような意味では、(人前で)ピアノを弾くということは、日常的ではなく非日常的なものでもある。毎日の平凡な営みとは正反対のところにあるもの。

あるピアニストの演奏に感動して泣いてしまったとする。このような経験は誰にでもあると思うし、あるからこそピアノというものを弾いているのだとも思うけれど、これも日常的体験なのではないかと思う。音楽を聴いている時には意識しないけれど、音楽が心の綾・・・のようなものに直接タッチしてくるような感覚?その心の綾は絶対に他人には見せないものだし、日頃は自分の中に、時には無意識のレベルでしまっているものだけれど、音楽、演奏がそれを開けてしまう・・・

感じたという感性は、自分だけの、しかも日常的なものなのに、ややもすると、自分が弾くという行為になると、これも無意識レベルで非日常的なものにしてしまう。自分=日常=俗っぽい、プロのピアニストの演奏=非日常=崇高・・・とでもいった仕分けがあるかのように、どこかに「感じた自分」というものを置き去りにしてしまう。自分の感性、自分が感じたという事実を不当に自分自身で下げてしまう。

まずは弾けるように、まずは基礎を固めて、とにかくチェルニーやハノンをワシワシ練習してから・・・のように。日常的な私が非日常的な感動的な音楽に触れるなんて・・・みたいな?指も動かないのに、音楽的な、感動的な演奏を目指すなんて、とんでもございません・・・みたいな?音楽を感じて泣いた感性はどこに?弾けるまで自分の気持ちは封印?

感動というもの、それを音楽から貰う、感じる、これは日常生活、つまり、その人の人生の中の小さな心の綾の積み重ねと無関係ではないと僕は思う。

小津映画を、まだ観たことがないという人は、やはり代表作「東京物語」を最初に観るといいのではないかと思う。地味なシーンなのかもしれないが、「とよ」が孫に語りかけるシーンがある。孫は祖母の言葉なんか聞いてはいないのだ。孫に語るというよりも「とよ」の独白シーンだろうと思う。小津映画なので、大袈裟なところはない。東山千榮子のセリフも表情も淡々としたものだ。「あんたがお医者さんになる頃、おばあちゃん、居るかのう?」セリフの言い回し、セリフ後の空間・・・僕には孫なんかいないけれど、このシーンを見た時、「ああ、切ないほど分かる、切ないほど同じだ」と感じた。この感覚は音楽を聴いた時と同じものだ。同じ種類の切なさ、そう感じた。

こんな不幸な私に誰がした?私が不幸なのは世の中の責任、このように感じながら生きている人は少数だと思う。逆に、蝶よ花よ、思い悩むことなんか皆無、すべてがハッピー・・・という人も少数だろう、と言うよりも、こちらは皆無だと思う。ほとんどの人が平々凡々な毎日を営んでいる。その中でも小さなことが積み重なるのだ。それを声を大にして赤裸々に語ったりはしないだけなのだ。心の中に蓄積されていると言うのかな、心の中に織り込まれていくと言うのかな・・・

音楽はそれを代弁してくれている、日常的な中での積み重なった綾を代弁してくれている、僕はそう感じる。

まずは基礎を・・・

それはそうなのだろう。でも、いつかはピアノは弾けなくなる。そのような日は必ず来る。その時に自分なりの、日常的な綾を音楽で代弁しようとしなかったら、かなり後悔するのではないかと思う。

kaz




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