ピアノのある生活、ピアノと歩む人生

「ピアチェーレ」代表の私的ブログ

悲しい風格 

 

自分にとって身近ではない国の映画を観ると、まずはその国独自の文化、風習のようなものに目が行くと思う。そうですね、例えばブータンとかウルグアイといった国は、僕にとっては非常に遠い国なので、映画で描かれるであろう、独自性にまずは着目するだろうと思う。料理とか部屋の佇まい、登場人物の動作とかね。

小津映画にも日本独特のものがあるとは思う。おそらくハリウッド映画にはないようなもの・・・

とにかく小津映画は何も起こらないのだ。ハリウッド映画のようなドラマティック性には欠ける。ストーリーも「嫁だし物語」が多いし、僕などはストーリーはゴチャゴチャになっていたりする。だって似ている(同じ?)なんだもん。娘役は司葉子だったっけ?あれ、有馬稲子じゃなかった?・・・のように。父親役も笠智衆だったか、佐分利信だったっけ・・・と混乱してしまう。

それでも(それだからこそ?)世界共通のものを感じるのかもしれない。誰も銃で殺されるわけではない。平々凡々な生活、人生が描かれる。だからこそ感じるもの。

結婚式の後、父親は一人で帰宅する。妻は先立っている。娘との二人暮らしだった。「紀子も、もう27だ。嫁に出さねば・・・」本心からそう思っていたはずだ。娘が片づいたという安堵感はあろう。でも悲しみもある。

他人にその悲しみを語ることもない。「よかったじゃない?結婚できたんだから・・・」そう言われるだけだろうし、実際にそうなのだ。世の中にはもっと不幸な人はいるのだ。

でも、その悲しみは日本人でなくても感じるのだ。父親でなくても感じる。共通の感情なのだ。そのところが小津映画が世界で評価されるところでもあるような気がする。

「役者に泣かせなくても、悲しみの風格は出せる」  小津安二郎

この動画は「晩春」のラストシーン。小津監督は笠智衆にこのような指示を出したそうだ。「笠さん、リンゴの皮を剝き終わったら慟哭してくれ」と。

笠智衆は「オーバー嫌いの先生からそんな注文を受けたのは初めてだったので驚きました。あの場面で慟哭するのは、なんぼ考えてもおかしい」

「先生、それはできません」小津の演出に対して「できません」と言ったのは、その時が最初で最後だった。小津監督自身も慟哭に関しては迷っていたらしく、それでこのようなシーンが生まれた。

このシーンの感情は、世界共通のものと思う。娘がいなくても、父親ではなくても、生活していれば、誰でもが感じるようなこと。誰でもが持つ感情・・・それは自分の中にしまいこむしかない感情・・・

だから世界の小津・・・なのではないだろうか?

kaz




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コメント

 

能登にモーゼの墓がありますが、戦後ghqが来て調査したが、何も出てこなかったようです。石川県にも、宝達山で、モーゼが。。。。という話は昔からされています。能登祭りも、猿田彦=モーゼを思わせる奇祭があります。古代ユダヤの方が来ていた。日本人の遺伝子とユダヤ人との遺伝子、モンゴルと、どこか一部だけに共通遺伝子があるそうです。その位遺伝的に近いそうです。 素敵なロマンです。

日本人 #- | URL | 2017/08/18 13:29 | edit

この種のことは、真相究明に突き進むのではなく、壮大なロマンとしてキープしておきたいような気もします。

kaz #- | URL | 2017/08/20 15:04 | edit

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