ピアノのある生活、ピアノと歩む人生

「ピアチェーレ」代表の私的ブログ

誇りのジョージアン・ダンス 

 

ヨーロッパの人って、僕の限りある経験では、物凄く「自分たちの独自性」というものを重んじるような気がする。そのような気迫がある。これって我々日本人には、なかなか理解できないようなことなのかもしれない。北米に住む人もヨーロッパ人とは、やはり異なるような印象を持つ。

「この山、この河の向こうは異なる言葉を話す、異なる文化を持つ人々がいる外国なのだ」

この緊張感、やはり並大抵のものではないのでは?むろん、ヨーロッパの多くの国で戦車が走っているわけではないし、銃撃戦があるわけではない。日本のように一見平和で長閑にも見える。でも緊張感を感じるのだ。「何かあれば、大国に吸収されてしまうかもしれない、侵略されてしまうかもしれない」のような?この緊張感が自国の文化を死んでも守らなければ・・・みたいなものにリンクしていくのではないだろうか?音楽とか、民族舞踊などにも、それは反映されていく。

旧ソビエトに所属していた国、アルメニアとか、ジョージア、このような国は、ソビエト時代には、自分たちの独自の文化を押さえ込まれていたように想像する。もしかしたら、ソビエト遺産として、各々の文化は中央から守られていたのかもしれないが、やはり自分たちの血、ルーツ、誇りのようなものが各地で燃え上がってしまうと、モスクワとしては非常にまずかったのではないかとも思う。だからこそ、人々は自分たちの文化を守り抜いた、そのようにも感じる。押さえ込まれていたからこその、熱いまでの、痛いまでの誇りを感じるのだ。

僕は国籍はアメリカでも、移民であったり、ヨーロッパに住んでいる人から、そのような気迫を感じることが多かった。ニューヨークに住むポーランド移民とか、イタリア人とか。ワスプのようなアメリカ人から、そのような気迫は感じない。

「君たち日本人は侵略された経験なんかないじゃないか!」この言葉を今も非常に重く感じる。たしかに僕は、日本語が他国から禁止されるとか、歌舞伎が上演禁止にさせられるとか、そのような危機感を今まで一度も感じたことはない。このまま日本という国はそのまま変わらず存在していくと思っている。そうは素直に思えない国、そのように思えないような歴史を重ねてきてしまった国もあるのだ。

これはジョージアン・ダンス。国立のバレエ団が独自の民族舞踊を守り抜いている。「これは自分たちだけの踊りなのだ、これは自分たちのものなのだ!」そのような気迫を感じる練習風景だ。

国立のバレエ団にしては、練習場の床が傷んでいるような?国のトップの舞踏家たちが、このような床で練習し、踊っている。日本や、その他西欧諸国、大国だったら、その国のトップのバレエ団だったら、もっと磨かれたような床、恵まれた環境で練習しているのではないかと想像する。日本のバレエ団の練習場とか、カルチャーセンター、ダンススクールの床、ジョージアのそれよりは少なくとも立派なのではないだろうか?

日本よりはジョージアは貧しいのかもしれない。経済大国でもないのかもしれない。でも守り抜いていくような、気迫、そして自国の文化への誇りを、この踊りから感じるのは僕だけだろうか?

kaz




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