ピアノのある生活、ピアノと歩む人生

「ピアチェーレ」代表の私的ブログ

愛と死 

 

生死学での考え方だと、どう死ぬかは、どう生きてきたかに比例する。死と生とは切り離せないものなのだ。では生の目的は?それは愛を知ることだとされている。そのように捉えると、ゴィエスカスの「愛と死」は人生観、死生観そのものの曲とも言える。2月のリサイタルでは、冒頭に、この「愛と死」から始めたいと思っている。

ゴィエスカスの中でも「マハとナイチンゲール」は、まあまあ(?)演奏される機会もあると思うけれど、最大の山場である第5曲の「愛と死」はそれほどでもないような?あまり聴きやすい曲でもないのだろうか?実はこの世で最も切ない、哀しいサウンドがこの曲には込められている。あまり演奏されないのであれば、なおの事演奏したいと思った。

グラナドスは人生の有限性というものを常に感じながら生きていたのではないか?そう感じる曲でもある。彼の死因は病死ではなく、事故死。それも海で溺れて死んでしまったのだから、自分の死期というものを予感していたとは思えない。でも愛は知っていたんじゃないかな?自分の命よりも大切な命があった人なのだから。その人と人生を歩んでいたのだから。

人生の有限性を感じながら生きている人、つまり、なんとなく今日の続きが明日で、そのような日々がなんとなく続いていくと思って生きていない人に共通しているのは、有限性を感じているからこそ、負のオーラに包まれて人生を、時間を無駄にしたくないという切なる思い。自分への困難、災難、これは多かれ少なかれ誰にでもあると思うが、そのことに翻弄されて時間を見失うことを最も恐れるのだ。たとえ重篤な病を宣告されたとしても。

このように感じられる人は強いのだろうか?むろん困難や試練のようなものは決して楽しいものではないけれど、自分のことは内なる最大限の力を総動員してなんとかするものなのだ。なんとかなる・・・

でも、不思議なことに、自分とは関係ないような、遠い異国の見ず知らずの他人の事などに翻弄されてしまい、動じてしまうようなことがある。本当に自分でも何故だか分からないのだが。

タンザニアという国、アフリカ大陸にある国なのだな・・・とはチラリと感じる程度で、実際には何も知らない。おそらく、自分が将来タンザニアを旅行することもないだろうと思う。非常に自分にとっては遠い国ではある。でもその国の出来事に切なくなったり、絶望を感じたりして、自分でもどうしたらいいのか分からなくなるほど動揺してしまったりする。心がざわついてしまう。自分の災難ならなんとでもなると思っているのに・・・

タンザニアの大統領はジョン・マグフリという人。この人はゲイに対する差別的な発言もあるらしいが、それよりも僕を打ちのめしたのは、女性に対する発言。

「妊娠した女子学生は学業を続けるべきではない」

タンザニアの女子学生は強制的に妊娠テスト(?)を受けさせられるらしい。妊娠していると退学させられてしまうらしい。

世界のどこかで、このようなことが実際に行われているという事実に動揺してしまうのだ。妊娠は女一人では決してできないはずなのに。何故女性だけが勉強する権利さえ奪われてしまうのか・・・

結局、世界のどこかでは理不尽な事が行われているのだ。人生も理不尽なことの連続のように思えたりするのだ。

だから切ないんだよ・・・

これがグラナドスの「愛と死」には詰まっている。この世のすべてが詰まっている。人生のすべてが詰まっている。

人それぞれ、何らかの方法で乗り越えていくのだし、心のざわつきを整理していくのだろう。そして進んでいく。でも何かが、たまってしまうのだ。それを集大成したものが「愛と死」のような気がする。肉体が滅びるまでそれは続いていく。でも最後の鐘が鳴っている瞬間、光を感じるのだ。

kaz




にほんブログ村


ピアノランキング
スポンサーサイト

category: リサイタル 2018

tb: --   cm: 0

△top

コメント

 

△top

コメントの投稿

 

Secret

△top