ピアノのある生活、ピアノと歩む人生

「ピアチェーレ」代表の私的ブログ

 

 

「私はとうとう日本に来たんだね。そして今、この国に恋している」・・・1958年、ガスパール・カサド初来日の時の言葉である。「数千の若い学生が、私の演奏を目を閉じてまるで祈るような恰好で無我になって聴いていました。これは日本の聴衆が、感動しているかどうかわからない、ということでは決してない。国民のサイコロジーの問題であって、日本人は決して恥ずかしいからとか、感動がないから自分の感情を外に出さない、ということではないのです。それは全然反対です」

この時、カサドは専属のピアニスト、ヘルムート・バルトを同行している。約一か月の滞在となった。カサドは日本での公演が決定すると、すぐに原智恵子に打診してきた。「二人でソナタの夕べをしませんか?」と。パリで知り合い、シエナで友情を育んできたチエコのことをカサドは忘れていなかったのだ。チエコは一度カサドの申し出を辞退している。「一度でも私が共演して東京の音楽家や批評家にまた何か言われてカサドの評価を落とされてはならない」と。

「招待された相手国の演奏家と共演することは、相手の国に敬意を表すことだと思っています」

円熟の巨匠、カサドについては絶賛の嵐だったようだ。「待望のカサドが聴ける。なぜもっと早く来てくれなかったのか、悔しいほどだ」(村田武雄) 「61歳のこの奏者は今まさに円熟の頂点にあるだけに渋み溢れた演奏をする。弓の使い方の巧みさ。フレージングの見事さ。音色の豊かさ。彼のチェロは本当に私たちの魂に話しかけてくる」(1958年、朝日新聞)

カサドとチエコによる「ソナタの夕べ」は実現した。日本のマスコミには無視される形となった。いや、一行だけの文が残った。「日本の演奏家とやるというのは、会の企画としてはおもしろいですね」(音楽之友)

カサドは日本を離れる際、チエコに告白した。「チエコをそばにおきたい・・・」

チエコがカサドの待つイタリアへ旅立ったのは1958年、12月のことだった。翌年の4月、カサドとチエコの婚約が日本の各新聞で報道された。週刊誌などには「子どもを捨てた鬼のような女」などと叩かれたりもしたらしい。当時、離婚というものは重かったのだろうと思う。

同年、5月9日、イタリア、シエナの聖チェチーリア教会で二人は結婚式を挙げた。

プロポーズの言葉は・・・という報道陣の質問にチエコはこう答えている。「ちょうど何万もある空の星の中から、偶然二つの星がある夜同時に流れるように演奏したのです」

チエコ、44歳、再婚。カサド、61歳、初婚。

「61歳まで独身を通してきた私は、独身主義者だと思われていました。世間が驚くのは無理もないし、世間が驚く以上に自分がチエコを知って驚いたのです。チエコが結婚の優しさを私に感じさせてくれました。もう20年早かったら・・・と残念に思います。チエコが私の最初で最後の恋人であり、妻であります」

kaz





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