ピアノのある生活、ピアノと歩む人生

「ピアチェーレ」代表の私的ブログ

エスプリへのバッシング 

 

石川康子著、「原智恵子 伝説のピアニスト」(ベスト新書)を読むと、なんだか居たたまれないような気持ちになる。

原智恵子が生まれたのは大正3年ということだ。当時のピアノの話題と言えば、当時ウィーンで自殺した久野久ではなかろうか?「本場では相手にされなかった」みたいなことが日本のピアノ界を駆け巡ったのではなかろうか?

原智恵子、7歳からピアノを始めている。意外と遅いスタートなのではないかと思う。師はスペイン人のペトロ・ビラべルデ。昭和3年、マルセイユ行きの船舶「香取丸」は一人の少女を乗せ横浜港を出航した。智恵子、13歳。そして後にパリ音楽院でラザール・レヴィに師事。プルミエ・プリにて卒業。このことは原智恵子が日本のピアノ界の派閥のようなものとは、一切関わりなくピアニストになったということを意味する。これは不幸なことだったのか、それとも幸せなことだったのだろうか?後年、原智恵子に対しての異常なまでの音楽界の重鎮たちの攻撃、これは原智恵子が派閥外であったということも関係はあるような気がする。

パリで音楽家としてのエスプリを身につけてしまった。当時の日本のピアノ界は、どこかドイツっぽい(?)ところもあったのではないか?フランスのエスプリとは衝突することもあっただろうと思われる。権力を持つ男性と対等に接してしまった、おそらくそのようなこともあったのだろう。

「そうですね、先生の仰るとおりですわ」とならず、「私はそうは思いません」と堂々と言ってしまった。

帰国後の凱旋リサイタル後、智恵子はこのような言葉を残している。「私、天才少女って言われるのは大嫌い。天才でもなんでもなくってよ。ただ勉強しただけ。それに私、もう少女じゃなくってよ」このような言葉が男には生意気と受け取られたのかもしれない。

パリ仕込みのピアノ、さらに容姿端麗、当時相当騒がれたのではないかと想像する。でも彼女には欠けていたものがあった。それは日本女性特有とされる「はにかみ」みたいなもの?「女ですもの。まだまだ至らなくて・・・」みたいなことを全面に出さなかったし、そのようなことは考えもしなかった。当時の日本で「恥じらう女性」ではなく「一人の人間」をしてしまった。

「あの女は生意気だ。男と対等に話などをする」若い女性が年上の男性に意見する、当時としては(今も???)大変なことだったのではないだろうか?衝突する男女、周囲はその内容さえ理解できす、ただ生意気な女という印象だけが残る・・・

聴衆からは絶大なる人気があった。彼女の残された録音を聴いても、それは理解できる。でも批評家、重鎮たちは原智恵子を無視、あるいは攻撃した。原智恵子の数少ない男性の理解者、新聞記者の板倉進は、ヨーロッパで活躍する原智恵子に対しての音楽界を牛耳る日本の男の重鎮たちの態度をこう表現(毎日新聞昭和28年)している。「黒っぽいドレッシーな服装、ツンとすまして気が強い。なんだ、お高くとまってと男たちは憤慨する。庶民的ではないのはたしかだ。それが積もり積もって陰口となる。とにかくこの国では損をする芸術家だ」

ある日本の評論家の原智恵子に対する言葉(批評?)が前出の書籍に掲載されている。かなり辛辣というか悪意のある文章だと感じる。この文章は活字によるイジメとさえ感じてしまう。

「私が原に初めて会ったのは、彼女が上京した時で、その時はバッハを今日と同じ正確さを持ってバリバリ弾いた。その印象が忘れられない。ある意味で、その時のバッハが彼女のすべてであるという気もする。断固たる音で、向こう意気が強い演奏家である。フランスでの教養は、むしろ仕上げに役だって、表面的なことだった。(中略)原のシューマンは、ロマンティックがかったものに深い情緒をだすが、安川のようにさらりとせず、ねばねばしたどこか人為的なところがある。レパートリーも安川のように広くはない。結局、安川は生粋の都会人、原は都会で磨き上げた土臭い無骨な田舎者の相違があるとでもいえるだろう。原は見かけは極めて剛直で、てこでも動くものかという顔をしている。だが案外気が弱い。頑張っているのは見かけだけだ。安川は見たところ柔和で優しい。いざとなるとなかなか意思が強固で原のように動じやすくない。二人の中なかで最初に涙を見せるのはどうも原である」(1951年、音楽之友)

kaz




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