ピアノのある生活、ピアノと歩む人生

「ピアチェーレ」代表の私的ブログ

変わっていないもの? 

 

洋行帰りという言葉があった。いや、今もあるけれど、海外旅行、あるいはディグリー留学ではない短期留学なども含め、随分と外国というものが身近なものにはなった。なので「ヨーロッパに行ってきました」「まぁ、洋行帰りでいらっしゃるのね!」みたいな会話は今はあまりないのではないかとも思う。ネットで海外の情報も身近なものにはなった、外国のコンクールの様子をリアルタイムで見る(聴く)ことだって今は可能だ。

今よりも過去の日本のピアニストが劣っているとは思えない。それこそ船舶で何日もかけてヨーロッパに渡った人たち。原智恵子とか田中希代子とか、素晴らしい人たちがいた。「でも、この人たちは、おフランスで学んだのでしょう?」たしかにそうだが、日本民族が、他の民族と比較して、西洋音楽から特に遠い民族とは思えなかったりする。とは言え、昭和のピアノ教室体験者としては、「昔はしっかり、かっちり、鍵盤の底まで」みたいな弾き方が多かった印象はある、僕自身は「弾き方」以前に挫折してしまったので、特にハイフィンガー奏法の想い出はないのだが、他の進んだ生徒たちはそのような、コキーン・・・みたいな固いピアノを弾いていたような記憶は鮮明にある。

あの頃からピアノ教育というか、奏法というか、随分と変わった。外国の旬の(?)情報も入りやすくなったのかもしれないし、実は旬ではないのだが、日本人にとっては旬・・・のような情報も入ってきて、さすがに昭和ピアノ教室のようなことは、もうないのだろう。実際「指を一つ一つ上げて、しっかりした音を出しましょう」なんて今は流行らない。今は重力奏法の時代。これが旬なのね。

でも、昭和時代と全く変わっていないというか、継続されてしまっている部分を感じたりもする。

「指をしっかり上げて!」「バッハはペダルなしで弾くのよ」「ベートーヴェンなのだから歌ったりせず、もっと厳格に弾きなさい」「カーンと鳴らしてぇ・・・」こんなことは今はないのかもしれない。でも、「先生に言われたことを守るのが当たり前だから」「皆がそのように弾いているから」と、上からの命令(?)や指示を守る、時には表現というものさえ、そのようなことから脱せずにいても不思議にさえ感じない。「先生がこのように弾きなさいと言ったから」みたいな?それを当たり前、当然、あるいは、必要とさえ感じている・・・

言われることは変化したのだろう。「指をしっかりと上げて」から「もっと腕の重みを感じて」のような?でも「先生にそう言われたから」「これが正しいと先生が言ったから」みたいな部分は、平成の世の中になっても継続されてしまっている部分もあるのでは?

もっと上手くなりたいな・・・この「上手く」という部分は、人それぞれの想いはあるだろうが、「とにかく情報を」と頑張ってみるのもいいけれど、ちょっとだけ「昔と変わらず、無意識に継続してしまっているところを攻めて(考えて)みよう」という発想をしてみると、「上手くなる」というところに近づくかもしれない。

「いいな」とピアノに対して、曲に対して思ったのは「あなた」であり、だから「あなた」は疲れた日の終わりにピアノを練習したりする。「好き」と感じているのは「あなた」なのだ。「この本にはこう書いてあったし」「先生はこのように弾けと言ったから」・・・反抗する必要はないけれど、では、「あなた」は何処に?

明治時代、メーソンとか、久野久とか、その頃と変わっていないこともあるのかもしれない。

kaz

洋行帰り、田中希代子さん・・・




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