ピアノのある生活、ピアノと歩む人生

「ピアチェーレ」代表の私的ブログ

音楽観戦とスポーツ鑑賞 

 

某国際ピアノコンクール、コンテスタントたちの演奏、バリバリとした、スポーツのような演奏と感じた。むろん、国際コンクールなので、ただ音を並べてみました・・・みたいな人はいない。表現も一応(?)あるというか?考えてみれば、彼らの受けた教育は、お国ぶりを反映しているというか、○○奏法という面から考えれば、様々であるのだろう。なのに「皆同じようにバリバリ・・・」といった印象を持ったのは何故だろう?

どこかフィギュアスケートの採点方法を連想する。昔の採点システムではなく、現在のもの。一つ一つの技には基礎点というものがある。難易度の高い技の基礎点は高くなる。それ以上に重要なのが、出来栄え。技の質によって、加点されたりするのだ。これがどこかピアノ演奏に反映されてしまっているような?

フィギュアスケートは基本的にスポーツであると思うので、技の質の向上という意味で、これはありだと思う。無理して(?)ルッツに挑戦して回転不足になるよりも、ループを完璧に、つまり高さ、距離、着氷後の流れ、空中での姿勢等々、質を重視したジャンプを跳んでいきましょうのような考え。バンクーバー五輪の頃だろうか、この「質」という考えが浸透したように思う。混乱もあったのでは?「なぜ転倒した選手のほうがノーミスで滑った選手よりも点数がいいの?」「なぜ4回転を回避した選手が成功させた人よりも上位なの?」みたいな?

昔の採点は大雑把だったように思う。技術点と芸術点しかなかった。5・8とか5・9という数字、そもそもあれは点数ではなく順位を表したものだった。ジャッジが何故その選手を1位にしたか、その基準を現在のプロトコルのように明確に示すことなどできなかった。現在のように、技に対して基礎点、さらに出来栄えにより加点、減点という方法だと、一つ一つの技の質が均一になると思う。ジャンプはまあまあだけれど、スピンは一応やっている程度・・・みたいな選手はいなくなっていく。でも、この場合、全体の印象というよりは、一つ一つの技そのものの完成度に選手たち、指導陣も集中していきがちというか?

旧採点時代のアイスダンス、トーヴィル&ディーンのようなカップルの演技、例えば1984年の「ボレロ」のようなプログラム。一つ一つのエレメンツが集まっているというよりは、全体的なストーリー性のようなものを強く感じたものだ。物語になっているというか?どこか現在のアイスダンスは、エレメンツの集合体という印象を持つ。凡庸なシングルでの演技も同様な印象。

各エレメンツの完成度を目指しているというピアノ演奏、某国際コンクールでのコンテスタントたちの演奏をそう感じてしまったのだ。このパッセージはレベル3、出来栄えで加点2を狙う・・・みたいな演奏。でも全体的には、技がバラバラに集合しているという印象しか持てず、感動とか、あら素敵・・・とは思いにくい演奏。

そもそも、我々が演奏に求めるもの、期待するものって、レベル3とかレベル4だろうか?出来栄えの加点などだろうか?もっと全体的なものなのでは?コンテスタントたち、もっと大きく捉えると、ピアノ教育界、指導者の目指すいい演奏と、音楽愛好家の求める聴きたい演奏とで、かなりの開きがあったりするのでは?

この演技、僕が知る中で最も抒情的なアイスダンスの演技だ。1992年なので、旧採点システム時代の演技。「この○○ステップの完成度、凄い・・・」のようには観ることはできない。全体的なもの、この演技の場合は叙事詩・・・のようなものを感じてしまう。

バリバリだろうがピアノ演奏は芸術、コンテスタントの演奏は芸術なのだ。高尚なるクラシック音楽。フィギュアスケートはスポーツなのだから、この演技はスポーツなのだ。でも、コンクールの演奏は「観戦」という印象。この演技は「鑑賞」という印象を持ってしまうのは何故だろう?

kaz




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