ピアノのある生活、ピアノと歩む人生

「ピアチェーレ」代表の私的ブログ

キス&クライ 1994 

 

この佐藤有香選手の演技は、実際に試合会場でも観たし、映像でも、もう何度も観ているのだが、今回は異なる視点で観てみた。娘の演技を見守る母親という視点。

両親がスケーターであり、コーチ。その娘なのだから、なんとなく幼い頃から、娘にはスケーターになるための英才教育をスパルタ式に行ったのではないかと想像するが、実際にはそうではなく、娘には「スケートだけはやらせたくない」みたいな感じだったのだそうだ。なんとなく分かるような?選手時代、どれほど辛かったか、そんな思いは娘にはさせたくない・・・みたいな?一見華やかな世界だし競技だから、もしかしたら憧れるのかもしれないが、それだけでは続かないのだと。「私にもスケート教えてぇ・・・」娘の懇願に負けたというか?

両親が両親だけに、やはり素質はあったのだろう。娘は順調に選手として成長していく。両親とも結構厳しいコーチだったのではないかな、想像だが。世界で通用する選手になるため、有香選手は日本からカナダに移る。これって今では普通・・・みたいな感じだけれど、相当大変なことではないかと思う。専門(?)のスケートもだが、やはり言葉の壁。バイリンガル教育を受けた人ならともかく、最初は相当言葉の問題というものは辛いものだ。有香選手はピーター・ダンフィールドの元で滑り始める。本拠地としては、カナダのオタワということになる。オタワ、おそらく英語はもちろん、フランス語もバンバン聞こえてきたのではないだろうか?

「もうイヤ、帰りたい」そう言う娘に両親は「そうかい?有香ちゃん、辛いんだったら帰っておいで」とは言わなかった。まぁ、それが当たり前だろうが。

このあたりは僕も経験がある。留学中、当たり前だが、起きてから寝るまで、すべて英語というのは相当なプレッシャーだ。辛いし、言葉という手段を持たないために、悔しい思いだってしたことがある。結構、留学当初はうなされたりした。「あんた、何言ってるか分からない」みたいなことを言われて悔しかったねぇ。「日本語で対応させれば、自分だって・・・」みたいな?単なる言葉なんだけど、できないと自分がダメ人間になったような、そんな気分にもなってくる。

留学していた頃、アメリカで最も有名な日本人、それが「ユカ・サトウ」だった。スケートとは関係ない話題を話していて、僕が日本人だと知ると「君、日本人?じゃあ、ユカ・サトウ知ってるね?」みたいな。当時彼女は日本人スケーターとして、アメリカで最も成功した人として知られていた。本当にスケートファンだけではなく、誰でも知っていたなぁ・・・

1994年の世界選手権、有香選手はショートプログラム(当時はテクニカルプログラム)を終えて1位。つまり1位でフリーを迎えた。これはかつてないことだ。世界選手権のメダル経験もない。どのような気持ちで、両親は娘をリンクサイドで見守ったのだろう?娘が世界チャンピオンになるかもしれない・・・どのような気持ちだったのだろう?スケートの厳しさを熟知していたはずの両親、ちょっとその時の気持ちは想像できない。

演技は素晴らしいものだった。有香選手をまず迎えるのが、コーチのピーター・ダンフィールド。まぁ、コーチなのでそうなるだろう。次に有香選手をハグするのは、信夫コーチではなく母親の久美子コーチだ。この時、キス&クライでダンフィールドコーチと有香選手と一緒に座ったのは久美子コーチだ。信夫コーチではない。信夫コーチはこの時一歩引いたのだ。

有香選手がオリンピックに出場とか、世界選手権でメダルも期待される・・・そのような時、注目され時にはインタビューされたりしたのは久美子コーチではなく、信夫コーチだったような気がする。久美子コーチは影で支えていたというか?

でも娘のスケート人生、最も輝くべき瞬間、娘の隣に座ったのは母親である久美子コーチ。僕たちの計り知れないようなことを信夫コーチは分っていたのだろう。

想像する。久美子コーチは、キス&クライ、有香選手の母親だったのだろうか?コーチだったのだろうか?先輩スケーターだったのだろうか?

「この瞬間だけは有香の母親でいなさい」なんとなく信夫コーチは父親としてそう伝えたかったのではないかな?想像だが・・・

kaz




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