pは弱い、fは強い・・・だろうか?
ピアノ・・・弱く フォルテ・・・強く、クレシェンド・・・だんだん強く、それはそうなのだろうが、まれに「記号として書いてあるから」と弾いてしまったりしていることはないだろうか?音進行もそうだよね、ドソと書いてあるからドソを弾いています(押しています?)みたいな?それだけでいいのかな・・・と。
ピアニシモは凄く弱く・・・ということになるのだろうが、「ハイ、では凄く弱くここは弾くのね」だけでいいものだろうか?視覚的な情報だけでピアノは弾けるのか?むろん、ピアニシモと楽譜にあれば、そこは盛大な音響で盛り上げるということはできないのだろうが、でもただ「弱くしましょう」と手に指令を与えるような感覚で弾いてしまっていいものだろうか?
「これはどういう意味の記号だったっけ?ワークブックでやったよね?」「えっと、弱く・・・」「そうだよね?じゃあ、もっと弱く弾かなきゃ」
そうなんだけど、それだけでは記号を視覚的に判読して「○○と書いてあるから○○する」みたいな感覚だけが育ってしまう気もする。
そもそも、○○する、つまり、ピアノ、ピアニシモだから弱くする・・・という認識、感覚だけでいいものだろうか?これは「楽譜に忠実」ということとも関連してくるようなことだとも思う。
ラフマニノフに「ここは素晴らしい場所」という小さな、でも美しい歌曲がある。2分もかからないような小曲だ。僕の持っている楽譜だと、ラフマニノフは歌のパートの大部分にpという記号を記している。「弱く」ということになるのだろうか?いくつかの松葉マーク以外に、曲の最高潮、つまり最大の山場でラフマニノフはppという記号をその部分で記している。「凄く弱く」だよね?
曲は徐々に盛り上がっていく。いかにも「ラフマニノフですね?」という語法で。切なく、そしてときめきながら曲は山場を迎える。ラフマニノフは(僕の楽譜では)高いB音、つまりシの音をピアニシモで長く伸ばすよう指示している。これは最高難度だ。張り上げる方が歌手にとっては楽だろうと思う。ハイBをソットヴォーチェで・・・
ラフマニノフは、この箇所で単なる「凄く弱く」という概念を望んだのだろうか?弱い音世界、音表情をここで欲したのか?
ニコライ・ゲッダがラフマニノフのピアニシモ概念を音として具現化してくれている。
ピアニシモ=凄く弱く・・・だろうか?
kaz

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ピアニシモは凄く弱く・・・ということになるのだろうが、「ハイ、では凄く弱くここは弾くのね」だけでいいものだろうか?視覚的な情報だけでピアノは弾けるのか?むろん、ピアニシモと楽譜にあれば、そこは盛大な音響で盛り上げるということはできないのだろうが、でもただ「弱くしましょう」と手に指令を与えるような感覚で弾いてしまっていいものだろうか?
「これはどういう意味の記号だったっけ?ワークブックでやったよね?」「えっと、弱く・・・」「そうだよね?じゃあ、もっと弱く弾かなきゃ」
そうなんだけど、それだけでは記号を視覚的に判読して「○○と書いてあるから○○する」みたいな感覚だけが育ってしまう気もする。
そもそも、○○する、つまり、ピアノ、ピアニシモだから弱くする・・・という認識、感覚だけでいいものだろうか?これは「楽譜に忠実」ということとも関連してくるようなことだとも思う。
ラフマニノフに「ここは素晴らしい場所」という小さな、でも美しい歌曲がある。2分もかからないような小曲だ。僕の持っている楽譜だと、ラフマニノフは歌のパートの大部分にpという記号を記している。「弱く」ということになるのだろうか?いくつかの松葉マーク以外に、曲の最高潮、つまり最大の山場でラフマニノフはppという記号をその部分で記している。「凄く弱く」だよね?
曲は徐々に盛り上がっていく。いかにも「ラフマニノフですね?」という語法で。切なく、そしてときめきながら曲は山場を迎える。ラフマニノフは(僕の楽譜では)高いB音、つまりシの音をピアニシモで長く伸ばすよう指示している。これは最高難度だ。張り上げる方が歌手にとっては楽だろうと思う。ハイBをソットヴォーチェで・・・
ラフマニノフは、この箇所で単なる「凄く弱く」という概念を望んだのだろうか?弱い音世界、音表情をここで欲したのか?
ニコライ・ゲッダがラフマニノフのピアニシモ概念を音として具現化してくれている。
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