ピアノのある生活、ピアノと歩む人生

「ピアチェーレ」代表の私的ブログ

天才と凡庸の割合 

 

多くの人は現代のスター演奏家を聴いて育つのだろう。往年系に走る(?)人は、現代スターの演奏に、どこか物足りなさを感じ、そちらに走る(?)のだろうか?逆ということはあまりないような?

現代スターを聴いて育った人、つまり王道ルートの人は、往年系演奏家の古い録音などを聴くと、「アゴーギグが大袈裟、大胆」とか「随分と自由な演奏ね」とか感じるらしい。僕自身は全くそうは感じないけれど、なぜにそう感じるのかということは想像はできる。なぜなら、僕自身が現代の多くのピアニストの演奏を聴くと「随分とあっさりなのね」「まるで事務処理のようにサクサクと・・・」と感じるからだ。

僕の場合、幼いころから往年系の演奏家を聴いて育ったので、王道ルートとは異なるルートを辿ってきたのかもしれない。

往年系を聴きなれてしまうと、美しい誤解が生まれてくる。例えばフリードマンのショパンなどを聴きながら「昔の人はロマンティックだったんだぁ・・・」と、あたかも昔のピアニスト全員が素晴らしかったような錯覚、幻想を感じてしまうのだ。黄金時代も現代も、変わらないものがある。厳しい現実だが、それは天才と凡才の割合みたいなもの。昔だってフリードマン、パデレフスキ、ホフマン、このクラスの天才はほんの一握りだったはずだ。その他大部分はロマンティックもどき(?)の凡庸な演奏だったはずだ。そのような演奏は年月の波を生き抜くことができずに消滅してしまっているので、現代の我々は聴くことができないだけなのだ。

当時の聴衆は凡庸な演奏を聴きながら、こう思ったのではないだろうか、「ああ、もっと作品の本質を感じられるような演奏が聴きたい」「演奏者の勝手気ままな思いつきを聴かされるのは、もううんざり。美しい作品を味わいたいの。演奏者ではなく作品を・・・」

さて、現代。やはり天才と凡才の割合は同じなのだろう。ただ年月の洗礼を受けていないので、天才も凡才も混沌と混ざっているのだ。今は人気でも10年後には過去の人・・・なんてピアニストは大勢出てくるはずだ。我々は凡庸な原典忠実演奏を聴かされていることにもなる。むろん、天才もいるから、そのような人は忠実主義の素晴らしい演奏をし、作品の素晴らしさを人々に伝えているのだろう。でも・・・凡庸な忠実主義演奏も聴かされているのだとしたら?

多くの人は、そろそろ感じているのでは?「楽譜通りには弾けているのかもしれないけど、皆同じような個性のない演奏をする」「もっと演奏者自身が感じられる演奏が聴きたい、ただ弾いているみたいな演奏にはうんざりなの」「正しい演奏じゃなく感動する演奏が聴きたいの」そう思い始めているのではないだろうか?

演奏スタイルの変換みたいなもの?もしかしたら、それは聴衆、大衆というものが方向を決定しているのかもしれない。

100年後、現代のスターの一握りは生き残っているだろう。そして100年後の人々にこう思われるのだ。「昔の人って作品に忠実で作品そのものを味わえるわね、いいわね。今のスターって勝手気ままな演奏にしか感じない。ああ、昔は良かった」と。

kaz




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