ピアノのある生活、ピアノと歩む人生

「ピアチェーレ」代表の私的ブログ

草団子とカールマン 

 

アメリカに滞在していた頃、特にホームシックというものを経験したことはない。子どもの頃、葛飾区柴又という土地は近所であったので、帝釈天とか非常に身近に感じるものだった。「草団子が食べたい」と猛烈に感じたことがある。ニューヨークでは、その辺を探せば日本食材などは普通にある。でも草団子はなかった。高級な虎屋の羊羹などは買えたが柴又の草団子はなかった。日本資本のスーパーで草餅はあった。でも「草団子じゃないとダメなのだ」・・・

せいぜいホームシックらしきものを経験したのはその時ぐらいだ。ルームメイトのHは僕と違い、故郷ポーランドの食べ物に執着していたように思う。食べ物だけではなく、すべてのものに。でも故郷を遠く平和に懐かしむというよりは、そこには愛憎混ざった強烈なパワーさえ感じたものだ。

今まで知り合ったヨーロッパ人の友人たち、何で物事をそう複雑化するのだろう、そう思うことが今でもある。草団子を懐かしむなどということとは違う、何か重いような感情。

ウィーン・フォルクスオーパーの初来日は1970年代の後半だったそうだ。当時は空席も目立ち、会場もどこか閑散としていたらしい。でも口コミで日本に広がっていった。「素晴らしいみたいだ」「あんなに楽しかった経験、初めて・・・」

オペレッタというもの、そのものに馴染みがなかったのかもしれない。全曲盤のレコードなどは存在していたとは思うし、レハールの「メリー・ウイドウ」などの作品、その旋律などはそれなりに知られていたとは思う。でも「オペレッタを聴こう」という雰囲気ではなかったのだね。多分・・・「な~に、それ・・・」みたいな?

口コミにより日本でも人気が出たウィーン・フォルクスオーパーだが、カールマンの代表作、「チャールダーシュの女王」を演目に加えた時には、フォルクスオーパー側にとっては賭けになったのではないだろうか。むろん、地元ウィーンでは人気作品だろう、でも日本で?レハールならともかく、エメリッヒ・カールマン?

ネットもなかった。音楽雑誌の特集、あるいは当日渡された(買わされた?)プログラムぐらいだけが情報だったのではないだろうか?今のように字幕スーパーが流れるわけでもない。むろん、ウィーン訛りのドイツ語を理解できる人など、そうは会場にはいなかっただろう。それでも手拍子、笑い、涙に会場が包まれたのだ。この瞬間、日本人にとってクラシック音楽は敷居の高い、教養の必要なスノッブだけのものではなくなった。日本の聴衆が積極的に音楽に飛び込んだ瞬間でもあった。

カールマン、「オペレッタ銀の時代」を同郷のレハールと共に築いた。ハンガリー人の作品らしく、ハンガリー色が強いようにも感じるが、まさしくこれはウィーンそのものだ。ウィーンはカールマンを歓迎した。自分たちのオペレッタの作者として。

でも、カールマンはウィーンを離れたのだ。ユダヤ人であったため。彼はウィーンを愛していたのではないかと思う。自分を認めてくれた街、生まれ故郷でも亡命先のアメリカでもなく、やはり彼はウィーンを最も愛していたのではなかったか。でも僕などには想像できない愛憎が含まれる。愛していたからこそ、裏切られたという想いが強かったのだろうか?

カールマンは、やはりヨーロッパ人だった。世情が落ち着くと、彼はアメリカからヨーロッパに戻った。でも彼はウィーンには戻らなかった。彼はパリという街を選んだ。

「チャールダーシュの女王」のこの場面、楽しいね、音楽も、踊りも何もかも。ウィーン文化そのものだ。ウィーンの香りに酔う。でも何かしらの胸の痛みをも感じる。ウィーン的であるほど深まる痛み。

僕も草団子だけではなく、郷愁、痛みというものを感じる年齢になったということだろうか・・・

エメリッヒ・カールマン・・・現在はウィーンの中央墓地に眠っている。

kaz




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