ピアノのある生活、ピアノと歩む人生

「ピアチェーレ」代表の私的ブログ

あれかこれか 

 

とても上手なのに、どこか残念な演奏というものがある。ミスもないし、本当にスラスラと達者なんだけど。その曲、一曲だけなら「まぁ、達者ねぇ、見事ねぇ・・・」みたいに聴けるのかもしれないが、一晩のリサイタルでその人の演奏を・・・となると、ちょっと躊躇してしまうような演奏。「下手じゃーん?」「ダメじゃーん?」というわけでもないので、余計に残念感が増してしまうというか。

この場合、表面上の技術というものよりも、音楽性とか表現というもので語られることが多い。もし、この部分を、もう少し「技術」という観点で語られるようになれば、「レベルが違うからぁ」とか「私は歌う才能がないからぁ」みたいに思わなくて済むのかもしれない。つまり、音楽的表現、聴いている人が「えっ?素敵じゃない?」と惹き込まれてしまうような、何かしらの要素というもの、それがエリートだけのものではなく、誰にでも可能なこと・・・というように思えてくる可能性がある。

誰にでも音楽的表現は可能、そう思えない人が、もしかしているのだとしたら、それは音楽的表現のためのノウハウ、技術的なものを知らないから・・・ということであるのかもしれない。

「上手じゃないですか?」

パヴァロッティのレッスンを受けているこの学生、とてもいい声をしているように思う。「上手ね」とまず思う。エリート学生なのだろう。古い映像みたいだが、ジュリアード音楽院でのマスタークラスの映像なので、彼はそこの学生なのだろう。

上手なんだけど、残念。個人的印象として、声(音)が散ってしまって、今一つ集まっていない印象。びゃーっと広がってしまっているというか。稚拙な表現で申し訳ないが。音が散ってしまうと、音そのものの集中力に欠けてしまい、演奏がなんとなく散漫な印象になってしまう。

音もっとを集めるのだよ・・・個人的にはそう感じる。音がもっと集まれば、フレーズのシェイプみたいなものが、より明確に聴き手に伝わるのではないかと思う。学生の声は「面」という感じ?パヴァロッティの声、ここではフルボイスで歌ってはいないにも関わらず、「点」という気がしてくる。一点に集中されているというか?

ピアノの場合だと、「面」という感じで、なんとなく腕とか手・・・のように大雑把に弾いてしまうのではなく、指先ビームのような?指先の「点」という感覚を鍵盤に入れ込んでいくというか?

ちょっとした技術的な悟りのようなもの、発見みたいなもの、ここが最終的には演奏というものを左右してしまうような気もする。

学生が歌っているのはヴェルディ。リゴレットからのアリア。「あれかこれか」というマントヴァ公爵のアリアなんだけれど、これって、かなりのセクハラアリアなのではないかと思う。

♪ 

あれかこれか 俺を取り巻く女たちは
俺にとっては皆同じようなものだ
俺の心は こちらの美女にも あちらの美女にも
そう簡単には捧げない

女の魅力というものは 男の命に
花を添えるための神からの贈り物
今日この女が気に入らなければ
明日は別の女が気に入るだろう

マントヴァ公爵、ちょっと(かなり?)軽薄なキャラクターだけど、魅力的でなければならない。まず最初のこのアリアで「なんて彼って魅力的なのかしら」という場を作らなければならない。「この男、何一人で騒いでるの?」というアリアになってしまうと、たとえそれが表面上は見事でもリゴレットというオペラ上演のその後の展開も危ぶまれてしまうというものだ。

パヴァロッティ、フルボイスではなくても神の声、神表現。「まぁ、パヴァロッティだから・・・」と言ってしまえば、そこで終わってしまうのだけれど、声とか表現が「面」ではなく「集中された点」となってはいないか?それによって音楽のシェイプが明確で、バタバタとしていない印象。

理由はあるのだ・・・自分は知らない(教わっていない)(気づこうとしていない)だけなのだ。そう思えると日頃の練習も楽しくなるのではないかと思う。

kaz




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