ピアノのある生活、ピアノと歩む人生

「ピアチェーレ」代表の私的ブログ

共鳴 

 

「音楽の可能性は無限だ。音楽は言葉では表現できない深い感情までも適格に表現してくれる」これはレナード・バーンスタインの言葉だったと思う。彼の考えに沿ってみると、音楽を演奏するということは、人間の深い感情というものと密接な関係があるということになる。

ある演奏を聴く、そして聴き手として感じること、そこには二つのパターンがあるように思う。「ああ・・・」と言葉にならないような感情のようなものを演奏者と聴き手が共有する瞬間、共鳴する瞬間。もう一つは「本当によく弾けているのだけど・・・」「これといって未熟とか、そのようなことはないんだけど、これはこれで立派だとは思うんだけど・・・」みたいな瞬間。

感情を込める?「もっと感情を込めて歌って~」ということなのだろうか?でもこれって演奏者だけのこと。聴き手という他者との関わり合いということとは少し異なる。人は演奏者がどのくらいの技量があるかどうかに関心があるわけではない。その舞台で、日頃の成果をどれだけ実現できるかに関心があるわけではない。演奏者の求めるもの、聴き手が求めるものとに距離があったりする場合、そこには「ああ・・・」という言葉にならないような感情の共有、音としての共鳴、そのようなことは難しくなるような気がする。

そもそもなぜ演奏するのか、その曲を選曲したのかということにも関わってくるように思う。「勉強になるから」「弾いてみたいから」「聴いてみて弾いてみたいと思ったから」そうなのだが、曲のある部分が自分の感情に語りかけてきたからではないだろうか?蓋をして隠していた深い感情、この部分に触れてきたからでは?そうであれば音楽、曲と演奏者とに共有、共鳴があったのだ。ただ「自分にとって勉強になる」とか「演奏効果が高いから」ということではなく・・・

曲のある部分に共鳴して演奏するのであれば、それは聴き手もまた人間であり、心に蓋をしている感情は持っているのだから、聴き手の隠された深い感情にも触れていくのではないか?自分がそうであったように・・・

聴き手が求めているのは、演奏者の練習量の成果ではない。音楽、演奏者、聴き手、共有しているものがあるかないか・・・

ある映画を観て感動したとする。ストーリーが素晴らしかったから?それもあるだろうが、たとえ一瞬、ワンカットでも共有した瞬間があるからということもあるのでは?そのシーンがなくても、ストーリーそのものは展開していく、でもその場面、その時の主人公の表情が観るものの心、感情を動かしていくみたいな?観ているものの蓋をしてしまっている深い感情にタッチしてくるような?

ある映画(フランスの映画「最強のふたり」)を観ていて、あるシーン、表情が僕の感情に触れてきたことがある。車いすの男性は、首から下の感覚が全くない。この部分は僕には理解できない部分だ。手も動くし、ピアノなどを弾いているのだから。でも彼が海を見つめる表情、それが僕にタッチしてきたのだ。「あなたにもこんな感情はあるでしょ?」と。「ある・・・たしかにある」そう感じた。共鳴したのだ。音楽にもそのようなものを感じる。だから弾くのだ。

演奏するということは、そこが究極の目的なのかもしれないが、なんとなくあることへの手段であるような気もする。

「人は死ぬことから逃げることはできないんだ。同時に生きることからも逃げることはできないんだ」  チャーリー・チャップリン

kaz




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