ピアノのある生活、ピアノと歩む人生

「ピアチェーレ」代表の私的ブログ

休符は音楽? 

 

休符の時、何を考えていますか?

「えっと、拍を数えて次の音の準備を・・・」たしかに音を出すには準備は必要だと思う。肉体的にも思考としても。音を出す瞬間ジャストにいろいろなことをやろうとしても、ちょっと遅いかも。いきあたりばったりの、雑な音しか出せないと、出てくる音楽としては「ただ音符を並べてみました」のようになってしまう。

誰が弾いても休符は同じなのだろうか?ホロヴィッツと自分の休符は同じ?「ええ。音は実際には出ていないのですから同じです」と言い切れるか?

休符前後が異なるのではないだろうか?一つの鉄則(勝手に自分だけが留意している自己流鉄則だが)として、フレーズの終わりの音、そして次のフレーズの始まりの音、これを音質として同じにすると、フレーズはつながるので、大きなラインとして聴き手に伝わる。反対に、緊迫感などを表出したい場合、フレーズごとにテンションを与える。こうすると長いラインというよりは、切迫した音楽になる。また、フレーズには山がある。これはよく言われることだが、山・・・というよりは、フレーズには引力のようなものがある。山にむかって引っ張られるような?自然界に例えれば、波のような?

この「波」を感じ、自分はフレーズをどうしたいのか、長く大きなラインにしたいのか、それとも緊迫感のある短い間隔でのテンションとして表現したいのか?計算は必要だ。これがないと、どんなに心を込めて感情的に弾きたいと思っても、いきあたりばったりな音の羅列になってしまう。聴き手はそのようなサウンドに対して「ただ弾いている」とか「弾けてはいるけど、それだけ?」のように感じてしまうような気がする。

惹きつけられる演奏の休符、退屈しながら聴いている演奏の休符、どちらも0.5秒だけ取りだしてみました的に聴けば、両方とも「無音」であるだろうから、そこには差は感じないのかもしれない。でも無音の前後が大きく異なるのではないだろうか?

「はい、今2拍休んでいま~す」となるか、休符が「ため息」となるかは、その休符の前後の「音」が関係しているのでは?

歌っているのはポルトガルのアントニオ・ザンブージョという人。基本的に「ファド」の歌手なのだが、彼の場合、ブラジルの「ボサノヴァ」とかカーボベルデの「モルナ」などの要素や魅力も加味されているのだそうだ。多国籍演奏みたいな感じ?聴いてみると「ボサノヴァ」というより、この歌い方は「ファド」のようだと感じるが、歌っている曲はブラジルの曲だ。

シコ・ブアルキの曲だね。「Valsinha」というタイトルは「小ワルツ」と訳される。詞は、あのヴィニシウス・ヂ・モライスで、彼の詞が素晴らしい。この世界はブラジルそのもの。

ザンブージョという人、休符が素晴らしい。歌っていない、音のない瞬間が素晴らしい。休符の練習を重ねたのだろうか?難しいパッセージを何度も反復練習するように?休符の前後を聴いてみたらどうだろう?

「Valsinha」(小ワルツ)    ヴィニシウス・ヂ・モライス

ある日彼が帰宅すると、全くいつもとは調子がちがっていた
いつもより、ずっとずっと熱い目で彼女を見つめた
いつも口を開けば生活の呪いだったのに、そうはしなかった
彼女を一人にもしなかった。散歩にさえ誘った
彼女はおしゃれをした。もうずっとそんなことは忘れていたのに・・・
二人は腕を取りあった。もうずっとそんなことは忘れていたのに・・・

二人は公園で抱きしめあった
そこでダンスをした。すると隣人たちが目を覚ました
至福が満ち溢れ、街中にあかりが灯った
何度も狂ったようにキスをした
何も聞えないほど荒々しく声をあげた

みんな理解した
そして夜は明けた

平穏に・・・




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