ピアノのある生活、ピアノと歩む人生

「ピアチェーレ」代表の私的ブログ

唱歌練習 

 

ピアノを再開するにあたって心に決めていたことがある。それは自分で納得できるピアノを弾いていきたいということ。愛好家、鑑賞者としては経験を積んでいて(?)退屈な演奏と惹きこまれる演奏との違いは明確に判断はできていたように思う。愛好家ならば、それだけでいい。「つまらんな・・・」とそこで終わればいい。でも自分で弾くのであったら、「なぜだろう?なぜそのように聴こえてしまうのだろう?」という部分にまで踏み込む必要があると思った。

人生の有限性を感じたからピアノを再開した・・・とも言えるが、いつまでも生きていられるわけではないという感覚が、ただ弾く、憧れの曲をただ制覇していくようなピアノライフは送りたくないということにつながっていたとは思う。根底には「僕も美というものに触れたい」という思いがあった。

鑑賞者として、いい演奏と凡庸な演奏、そのように異なって聴こえてくるのには、ある一定の法則らしきものがあるのは感じていた。曲をパラパラ弾いていく前に、自分なりにその法則らしきものを感覚として自覚したいと思った。ショパンはそのあと・・・

凡庸で、ただバタバタ弾いているだけの演奏、自分の手指の都合によって、音楽が変わってしまっている・・・この印象はずっと持っていた。反対でしょ・・・と。音楽が要求しているものに自分の動きを合わせるのでは・・・と。

「ほたるこい」という唱歌がある。「ほ ほ ほたるこい・・・」という歌。まずは、様々な唱歌、童謡を右手だけで弾いてみる練習を続けた。弾けないんだな・・・これが。むろん、音は弾けるんだけど。

ラ ラ ラーソソラ・・・

ラーソソのソソがバタバタする・・・そう感じたのだ。具体的に指がいけない動きをしているからそうなるのだと。ソソの部分で指の上下運動が顕著になる。だからだ。指を変えてみる?押し込むように上下ではない動きで弾いてみる?それとも鍵盤の奥から手前に弾いてみる?いろいろトライしてみた。「チューリップ」とか「さっちゃん」とか、色々と弾いてみたねぇ・・・

音楽にはフレーズというものがあり、一つのまとまりとして聴き手に伝えたいのならば、弾き手の動きも実際に一つの動きにしなければならない・・・それができていないのだ・・・と。

有名なショパンのノクターン、Op.9-2。冒頭、左手が跳躍する。難しいのだ。でもメロディーの「シソ~ファソファ~ミ」の最初のファの音、この音を無意識にガツンと鍵盤を下してしまうと(弾いてしまうと)フレーズとしてここで二つに分断されてしまう。それを意識できるか?聴こえてくるか?

楽譜に忠実、楽譜を読む、それは音を読むということだけではなく、この最初の「ファ」をどうするか・・・具体的にどう弾くかということまで含まれるのではないか?不用意にガツンと弾いてしまっては、どんなに心を込めても、感情に浸っても自己陶酔でしかない。つまり伝わらないのでは・・・と。

いきなりショパンというのは、当時の(今も?)僕には複雑すぎたので、唱歌で練習し自覚化を試みたのだ。

指先に集め、鍵盤の「面」というよりは「点」のような感じ?いい演奏にはこれがあり、音が散漫ではなく、集中していてクリア、クリスタルクリアな感じだ。また基本的に人間の指は、それぞれ5本しかないので、指をかえしたりとか、移動したりとか、様々な動きをしなければならない。その時の「演奏者側の都合」みたいなものが、演奏にそのまま反映されてしまう、これがある種の凡庸さを生み出しているのではないか?指のなんとなくの上下運動だけで弾いてしまうと、指都合がそのまま音として出てきてしまいやすい・・・

「僕は右手で唱歌を美しく弾けない・・・」

手指の都合で、微妙にガツン、ゴツン、音そのものもバシャンと散漫な感じ?僕の脳内サウンドと著しく異なる。

世の人々は、ここをどうクリアしているのだろう?していなくてもパラパラと音譜は弾けるから、耳に蓋をしてしまえば、それはそれでピアノライフも充実するのだろうか?「それはイヤだ!」

悩んだ人だっているに違いない。集中された、意思のある音、生まれながらにできる人よりは、できない人の方が多かったはずだ。何かしらの「救済措置的なるもの」は存在しているはずだ。「そうよね、それって困るわよね?だったらこんな方法はどう?」みたいな何らかのものが存在しているはずだ。ピアノの歴史は長いのだから。

続く

kaz


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