ピアノのある生活、ピアノと歩む人生

「ピアチェーレ」代表の私的ブログ

ブラジルのショパン 

 

幼かった頃の僕は、世の中の人は皆ピアノを弾くものだと思っていた。世の中の人は自然に鍵盤に向かい、即興的に何かが弾けるものだと。ピアノのレッスンを受ける、ピアノを習うということは、その即興演奏のようなものを伸ばしていくものだと。でも実際は違っていたわけだ。楽譜を読むということに慣れなかった。「どうして出来上がった曲として退屈らしきものをチマチマと練習していかなければならないのだろう?」

「もうちょっと練習してきてね?本当にお願い・・・」そう言われてもレッスン課題(バイエルですね)を練習することはなく、即興演奏で遊んでばかりいた。読譜ができないと、家で何を練習すればいいのか分からない。なので、練習はレッスンで先生と一緒にするものとなっていた。それはそれで先生も感情的になるし、苦痛だったから、練習すればよかったのかもしれないが、何をしていいか分からなかった。その曲を「弾きたい」という欲求そのものが皆無でもあった。導入指導のコツ、それは読譜能力を養うことではないかと思う。練習しない子どもって、「しない」ではなく「できない」「何をすればいいのか分からない」という可能性がある。

「ああ、弾いてみたい」というようになったのは、やはり医大生に音楽や偉大な演奏を紹介してもらってから。火のような欲望というのだろうか?まず最初に弾いてみたのは、いわゆる発表会御用達のような曲。当時、神西敦子という大変に折り目正しい演奏をするピアニストのレコードを所有していた。そのレコードには収録されていた曲の縮小版全音ピアノピースが付録(?)としてついていたのだ。ワイマンの「銀波」とかランゲの「花の歌」とか、そのような曲を弾いてみた。自然と読譜もできるようになっていったと思う。

「一応弾けた!!!」何という喜びだっただろう。その成果をレッスンで披露することはなかった。「弾けるわけないじゃない!」と拒絶されてしまったので。今思えば、レッスンではバイエルを片手でも弾けなかったわけだから、無理もないと思う。「一応弾けた」という喜びもつかの間、模範演奏のレコードの演奏と、自分のそれとは、何か大きなものが異なっているように感じた。「ピアニストの演奏なんだから当たり前じゃない?」と思えばそうだが、自分の演奏はバシャンバシャンしていて、ただ弾いているような気がして、それがイヤだったのだ。

最近ユーチューブで中村紘子のレッスンを見て感慨深かったことがある。彼女の指摘、「バタバタしない」「指先に音を集めて」「同じフレーズ内の響きとして散漫なものにしないために同じ動きの中で」「入れて抜く」・・・このようなことは、自己流ながら、当時自分で研究していたところがあるからだ。音が散ってしまう、歌い方に抑揚がないというのが自分の欠点で、自分なりになんとかしようと思ったのだ。

医大生の紹介してくれる演奏、何らかの影響はあったのだと思うが、それはそれとして具体的に自分のピアノというものと結びつけることは、それまでしなかった。あまりの感動でボーッとしていたというか?神西敦子の演奏は、清潔で折り目正しかったけれど、なんというか劇的印象を僕に与えるというものではなかったし、中村紘子のレコードから受ける印象は、音そのものは冴えていたけれど、曲によってはあまりにピアニスティックなところに多少の違和感を感じたりしていた。「アルプスの夕映え」とか、あまりに冴え冴えと演奏されていたから。そのような印象は、ショパンの作品の演奏からも感じたりはしていた。

そんな時、なんとなく購入したレコードが、ブラジルのピアニスト、アルトゥール・モレイラ=リマのショパン名曲集。「まあ、なんと渋い趣味なの!」という感じだが、そのレコードは日本で録音されたもので、来日公演の際に録音されたものではなかったか?今では知る人ぞ知るという感じのピアニストなのかもしれないが、1970年代当時は、今よりは日本でも有名だったのではなかったか?ショパン・コンクールで第2位となっている。アルゲリッチが優勝した時の2位。そのような意味では、モレイラ=リマのショパンは、それほど奇抜な選曲ということでもなかったのだろう。

「幻想即興曲」・・・弾いてみたいと思ったのだ。そう当時の僕に感じさせる魅力がモレイラ=リマの演奏には備わっていた。キラキラした音、どうすればいいのだろう?散らずに散漫な音にならないためには?カンティレーナの部分、どうしてこのように歌えるのだろう?ブレスの際に力を肘ではなく、手首から抜いてみたら?・・・とか、当時は未熟なりに、色々と工夫してみたものだ。「モレイラ=リマさんのように弾いてみたい!!!」

「一応弾けた!!!」むろん、モレイラ=リマの演奏とは雲泥の差だっただろうが。自分の中でも先生に認められたいという気持ちはあったのだろうと思う。「自分で弾いてみたんです!」「ショパンなんて弾けるはずないじゃない?」そして僕のブログ愛読者(いるのか?)には有名な、例の楽譜ビリビリ事件。そう、先生に楽譜を破られてしまったのだ。

どうも、ピアノ教師という人たちに、今でも何らかのマイナス感情が僕にあるとしたら、この時の自分の体験は関係しているかもしれない。それよりも、あの時の火のような欲求、欲望と表現した方が近いような気がするが、「なんとなくただ弾くのではなく、モレイラ=リマさんのように弾いてみたい」という欲求に、自分なりに忠実になり、独自の工夫をしてみた、小学生だった僕を自画自賛してみたくなる気持ちの方が強いだろうか?「自分でやってみた・・・」これが30年後、ピアノを再開した時に、そして今でも役立っているように思えるからだ。

平凡な人間の日常生活というもの、そこから遥か遠いところにあるような、素晴らしいもの、演奏、音楽・・・芥子粒のような存在である自分だけれど、触れるかもしれない、一瞬でもその中に身を置くことができるかもしれない、この胸の震えるような欲求、それが現在、ピアノを弾いている動機となっているような気がする。小学生の時からその部分では変わっていないのだ。

その曲が弾けるようになりたい・・・それよりは、何かに自分でも触れてみたいと思う。だから弾いている。

kaz




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