ピアノのある生活、ピアノと歩む人生

「ピアチェーレ」代表の私的ブログ

ハイフィンガーという提起 

 

その昔、テレビで中村紘子のレッスンを放映していた時、たしか僕は大学生だったと思う。ピアノを弾くということとは無縁の生活だったし、無縁の世界にいたけれど、ピアノを聴くということは愛好家として生活の中にあった。NHKで放映されていた「ピアノのおけいこ」なる番組、実は子どもの頃から結構観ていた記憶がある。中村紘子のレッスンはそのような「ピアノのおけいこ」のものとは少し異なっていたように思う。先生ではなく現役のピアニストが・・・ということが違っていたと当時は言われていたし、なんとなく僕もそう感じていたように思うが、「実に具体的なレッスンだな・・・」というのが正直な感想だった、もっと違うものを想像していたのは事実だ。「深淵なるお芸術とは~」みたいな?全然そうではなかったのね。でも、日本人ピアニストとか、優秀音大生の演奏に対して感じていた弱点のようなもの、その原因を、そのレッスンから感じとるとか、考えるということはしなかった。自分が弾いていなかったからだろう。ただ過ぎ去ってしまったという感じだろうか?

それから何年か経ち、中村紘子の「チャイコフスキー・コンクール」という本を読んだのだと思う。1988年、中央公論社刊・・・とあるから出版後すぐに読んだのだと思う。そして感じたのだ。日本人ピアニストを聴いて感じていた、ある種の物足りなさのようなものは、これだったのか・・・と。

「ハイフィンガー奏法」なる言葉は、この本がきっかけで世に浸透したのではなかったか?「指先と鍵盤との関係が、常に真上からのものであるので、響きがポツポツと固く・・・」とか「音楽を自分の内面的欲求からというよりも、むしろ形式からつかんでいるようなところがあって、いうなれば音楽の輪郭を表面からなぞっているような感覚があり、もちろん表面上は音譜をきちんと弾いてはいるのだが、その音楽と演奏者との間になんの関わりあいも見出されないのである」のような、愛好家として感じていた日本ピアノへの不満のようなもの、その要因が巧みな文章で説明されていたように感じた。

「ああ、そうだったのか・・・」

むろん、この本が出版される以前にも、日本人ピアニスト、日本ピアニズムにおける、ある種の平坦さ、機械のようにノーミスに弾くが、どこか無表情、何を弾いても同じ・・・のような欠点は言われていたように思う。でもその根底には、文化の違いとか、宗教がどうたらとか、西洋音楽の歴史の浅さとか、はては日本人特有の恥じらいとか謙虚さのような、人種としての特有性のようなものとして語られていたように思う。「私たち、歴史も文化も西洋人とは違うから・・・」のような?

「チャイコフスキー・コンクール」では一つの問題提起があったように思う。「そうだろうか?日本人の西洋音楽に対する基本的な感受性の有無に関することなのであろうか。それとも知性や感受性といったものを論議する以前の、ごく具体的に言って表現技術に類する問題なのであろうか?」と。つまり、それ以前に弾き方に問題があるのでは・・・と。

僕のような音楽愛好家であれば、「ああ、そうだったのか・・・」で納得してしまえるが、当時の優秀な音大生とか、留学生とか、つまり国際コンクールに挑戦するようなコンテスタントたちとか、中村紘子の提起をどのように受け取ったのだろう?実によく弾けるのだが、どこか平坦・・・どんなに練習しても、心のどこかで感じる音楽性の不足というか、もっと残酷な言い方をすれば、聴き手を感動させる演奏にはなり得ない、何かの不足・・・のようなものの起因を提起されてしまったら?

「感受性?歴史?そこよりも、むしろ、弾き方の問題でしょ?」

想像だが、「あなたたちには決定的な西洋文化の歴史が不足している」とか「埋められないような文化の違いがある」のような、自分たちにはどうしようもないような(?)深淵で曖昧なことが起因であれば、まだいいだろうと。でも「弾き方に問題があるのでは?」ということだと、それまでの辛かったピアノ道をどう受け止めればいいというのだろう?楽しいことも我慢して、厳しい修練に耐えてきた。レッスンも頑張って、練習も頑張った。だから私は難関の音大にも合格した、でも感じる。「とても達者に弾ける。もっと練習すればもっと弾ける。でも、人を感動させたことはないし、自分でも自分の演奏には何かが欠けているのは自覚している。でもだからといってどうしたらいいというのだろう?」

「弾き方」などと言われたら、「今までの私の苦労は何だったの?」と感じた人も多かったのではないだろうか?その時師事していた音大教授を恨む?過去に教えを受けた先生を恨む?自分を恨む?どう解決していったのだろう?

さて、現代、中村紘子の「チャイコフスキー・コンクール」から30年近くが過ぎようとしている。中村紘子が提起した「ハイフィンガー」という問題も解決し、弾き方に関しても全国津々浦々、音楽を具現化させるためにメカニックをどうテクニックとして連動させて・・・などの問題もクリアし、全国の音大では、かつての「平坦で無表情」とか「機械のようにノーミスだけれど、何かが足りない」とか、そんなことは過去のことで、麗しい音楽がレッスン室に鳴り響いている。人の心を動かしてしまう日本人の演奏は、西洋人など足元にも及ばないレベルになり、国際的に活躍する日本人ピアニストは数えきれないようになった。

そうはなっていない・・・ような気がする。現在もどこかの音大で悩んでいる優秀な音大生は存在しているのではないだろうか?

ピアニスト、中村紘子の死、問題提起をする人がいなくなった・・・と感じる。

kaz




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