ピアノのある生活、ピアノと歩む人生

「ピアチェーレ」代表の私的ブログ

レッスンって導くこと? 

 

シフラの「ハンガリー狂詩曲」からゾルタン・マガの「チャールダーシュ」まで、かつて医大生が曲を紹介してくれた方法で僕も紹介してみた。その演奏、曲を特徴づけている要素を探って、関連させていく、あるいは演奏者や作曲者の周辺まで広げていく聴き方。率直に言って、とても楽しかった。僕には、かつての小学生時代の僕のような少年など周囲にはいないので、実際には導き役にはなり得ないがブログがその欲求を満たしているようなところはある。どこかで僕の選んだ曲や演奏を聴いて「あっ・・・」と感じてくれる人がいるかもしれない、それは何と素晴らしい想像だろうと。

月の輝く夜以降、曲紹介という聴かせ方から、演奏を際立たせている要素を探る聴かせ方に変わっていった。曲としては、僕も知っているような有名な曲を、演奏の違いによってどうなるか・・・という観点で医大生はレコードを選択することが多くなっていったように思う。

この曲は僕も知っていた。「おさらい会御用達」みたいなレコードに収録されていたから。僕の持っていたレコードの演奏も悪いものではなかったように思う。純粋に「素敵な曲なんだな」と思ったから。でも医大生がかけてくれたこの演奏は何かが違っていた。すべてが違っていた。

この演奏を僕に聴かせた後、「ローゼンタール、聴こうか?」そして「コルトーの演奏で聴いてみようよ」何度もレコードの針を戻しながら「今の部分、ここなんだよ!!!」と・・・

自分が演奏する際、一応自分なりのスキルのようなものはある。言葉ではとても説明できるようなことではないし、僕はピアノ教師ではないので、伝える方法を考える必要性さえ感じない。かなり大雑把、かつ主観的な説明をしてみると、ピアノは「弾く」ではなく「狙う」みたいな感覚?伴奏とメロディー、これまた単純すぎる言い方だが、響きと、その響きの中からクリスタルな感じで浮かんでくるメロディー・・・みたいな?この部分は、自分がこれで・・・というよりも、かなり大胆にしてみて調度よろしいかと。アゴーギク要素は、抑揚のツボ・・・みたいなものはあるように思う。波みたいな感じ?パッセージを百回機械的に練習するよりは、イタリア映画を音的鑑賞してみた方がアゴーギク訓練にはなるかも・・・とかは思ったりする。

聴き手としては、演奏者との間に距離をまず置く。そして期待するのだ。「何かしらで惹きつけてくれるだろうか」と。「あっ・・・」と何かしらで感じさせてくれるだろうかと。これを期待する。これがないと、ノーミスで破綻なく、一応の表現らしきものがあっても聴き手としては退屈してしまう。演奏する際は、自分でも聴き手になってみる。シンプルなこと。「自分の演奏、聴き手の立場としてはどうよ?」という観点というか?

上手く言語化はできないのだが、この一応のスキルらしきものは、医大生の聴かせてくれた音楽や演奏によって導かれたものと僕は思っている。

生活の中にピアノというものを組み込むのは大変なことだ。それでも弾く。弾かずにはいられないから。僕は思う。やはり、導き役は自分が習っているピアノの先生がベストなのではないかと。いい先生に習う・・・意外と難しいことなのか?それとも意外とシンプルなものなのか?いい先生の基準、それは学歴ではないように思う。先生自身が追っているかだと思う。焦がれて苦しいまでの想い。一緒に探して、追っていける先生がいいと僕は思う。そのような先生は自分でもピアノを弾いている。焦がれて苦しんでいる。

kaz




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