ピアノのある生活、ピアノと歩む人生

「ピアチェーレ」代表の私的ブログ

ショパンを弾くならベッリーニを聴こう! 

 

シプリアン・カツァリスはレッスンの中で「ショパンは同じ旋律が二度出てきたら、変えて弾くのが好きでした」と何度も言っている。このことで思い出したのがマリア・カラスのレッスン。有名なジュリアード音楽院でのマスター・クラス。幸いなことに、この時の音源はCD化されているので、現在でも聴くことができる。マリア・カラスも同じような事を言っていた。

「その旋律は一度出てきています。聴衆はもうすでに一度聴いているのです。二度目は変えましょう」と。カラスの場合、たんなる歌い方、表現の工夫というよりは、「これはベルカントオペラの伝統なのです」のような重みを感じさせる言い方だった。

ショパンについて少しでも調べてみると、ショパンはピアノでベルカントというものを追及した人のように感じてくる。特にベッリーニとの関わりが深いような?ショパンを弾くならベッリーニを聴け・・・みたいな?

「オペラって苦手なのよね~、長いし~」でもアリアだけでも聴いてみたらどうだろう?ベッリーニのオペラのアリアなどを聴いてみると、ショパンはベッリーニのベルカントをピアノで追及していたことが分かってくる、というか、そのように感じてくる。ショパンのある種の曲、ある部分、もうベッリーニだよね・・・みたいな?

① 繰り返す連続音型の伴奏に、カンティレーナ、歌うようなメロディーを乗せていく。
② ショパンのメロディーの跳躍の音型は、ベッリーニのポルタメント効果を感じさせる。
③ フレーズの途中で休符がある時は、音の質を統一したり、変えたりすることで、メロディーラインが大きく聴こえたり、緊迫感や憧れの要素が強調されたりする。

メカニックをテクニックというツールを介して表現に結びつける、この考えだとピアノを弾くのが楽しくなる。「どうせ・・・」モードがなくなるように感じるから。でも逆に考えてみると、ピアノを弾くということは運動という側面もあるので、何らかの具体的なテクニックというものを介さないと、ピアノという楽器からは人に何も伝わらないということにもなる。いくら感動に震える芸術夢見る子さんになってみたとしても、それだけでは何も伝わらないということだ。具体的な何かをしないと・・・

でも何もないところからは何も出ないのも事実だ。どんなに高度なメカニックを持っていたとしても、「ああ、このようにこの部分は弾きたい」というものがなければ、それは出ない。いくら指が闊達でも曲に関して「別に~」とか「この曲なら初心者と思われないから」みたいなことでは何も出てこない。

具体的なノウハウって、やはり誰かに具体的に伝授してもらう方が楽だと思う。簡単に言ってしまえば「素晴らしい教師」の存在が大きいと思う。でも自分の中で発酵させること、イメージを磨くことは自分でもできる・・・というか、やらなければいけないことなのではないだろうか?だって実際にピアノを弾くのは自分なんだから・・・

マリア・カラスのベッリーニ。これを聴くと感じるのではなかろうか?

「私の演奏ってその場しのぎみたいで、まとまりがない。あっ、カラスの歌い方、休符の前と後とで声の質が統一されている」「どうも自分の演奏って、あっけらかんという感じから抜け出せないのよね。先生はもっと歌ってというけれど。あっ、カラスの歌い方、跳躍の音型が素晴らしいわ。私って跳躍の時、考えなしに鍵盤をガツンと打ってない?はずさないようにとか命中させなきゃ・・・みたいに。このポルタメントのような丁寧さ?ちょっと単旋律だけで試してみようかしら?」

ピアノではポルタメントできない?でもショパンはその効果を期待しているんじゃない?ポルタメントみたいな効果は可能かもしれない。

自分でイメージ発酵してみる。ショパンを弾くならベッリーニを聴いてみよう。

kaz




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