ピアノのある生活、ピアノと歩む人生

「ピアチェーレ」代表の私的ブログ

休符は溜息 

 

昨日はサントリー、ブルーローズの演奏会に出かけた。Megumiさんの演奏を聴くため。もともと僕は、あまり生演奏を聴きに演奏会に出かけることに積極的ではないように思う。家でCDを聴いているほうが好きなのだ。むろん、生演奏の魅力は理解している。同じ空間で共有し合える喜びはCDでは味わえない。でも音響を聴きにいくわけではないのだ。肝心なのは演奏。東京で催される演奏会の多くに満足できないのではないかと思う。これは不幸なことではあると思う。極端な例だがミラノ、スカラ座の引っ越し公演があったとして、「家賃か?」と思うようなチケット代もクリアしたとして、聴きにいくとする。満足や感心はするかもしれないが、やはり僕はカラスの歌声で聴きたいと思うだろう。カルーソーの歌声を聴きたいと思うだろう。現代のスター歌手は彼らには遠く及ばない。舞台の臨場感というものを加味して考えてみても。僕自身は未来に向かって現在を生きているわけだから、このような好みの傾向があるのは、やはり不幸なことなのだ。

「これがいい演奏なのです」のような基準があるのだろうか?そのような基準をフィルターで濾したような演奏よりは、「自分は努力して基準をこのようにクリアしています」のような演奏よりは、もっと演奏者が心で感じたものを僕は聴き手として共有したいと思う。なぜ演奏者がその曲を弾いているのか、さらに演奏者がなぜにその楽器を弾いているのか・・・

演奏者が楽器を演奏し、ある曲を演奏する、そこには何かしらの動機があったはずだ。「私はここに惹かれたの」という部分。それを客席で共有したいのだ。「そうだね、音楽って・・・いいよね、切ないよね、喜びだよね」という何かしらの感情を共有したい。聴き手である僕の感情を揺り動かして欲しい。

まれに、そのような音楽体験が期待できる演奏会もあるのだ。スティーヴン・ハフのリサイタルもそうだった。彼がアンコールでグリーグを弾いている時に、大袈裟でなく、この世に生まれて、この瞬間まで生き残っていて良かったと心の底から感じたものだ。昨日のMegumiさんの演奏にも、そのような体験への期待があった。そのような演奏会だったら毎週でも聴きに出かけたいのだ。

聴きにいって良かったと心の底から感じられた演奏だった。基準を追った借り物ではなく、そこに展開されていた音世界は彼女自身が焦がれた世界。それに惹きこまれ、感情体験として共有できる喜びがあった。

2点強く感じたことがある。でも演奏に対しての感想を文章化するのは非常に難しい。そもそも文章で表せないようなものを音楽は再現してくれるものなのだから。それに僕はその困難な文章化を仕事とする批評家でもないのだ。

2点感じた・・・それに関して、二人の演奏家を帰り道、そして今現在も想ったりしている。Megumiさんと共通している要素かな・・・と。むろん、Megumiさんの演奏が僕の想っている演奏家たちと似ているということではない。でも近い・・・のかもしれない。

間合い・・・そこが素晴らしいと感じる。呼吸というのか、音楽の波というのかな?「ここは休符だから音を切りました」という間合いではなく、「ここから音符が始まっているので弾いてみています」という間合いではなく、休符は「ため息」だったりするのだ。呼吸している。間合いに感情というのかな、喜怒哀楽がある。音楽、演奏が生きているのだ。

この点で、僕はロシアのテノール、コズロフスキーを想った。彼のフレーズ処理、休符処理を想った。音楽は生きていて、感情があるのだ。当たり前のようだが、実際に生演奏で聴ける機会はほとんどないように思う。

この歌唱、コズロフスキーが80歳の時の歌唱。年齢ということを考えなくても凄い演奏だ。休符は「ため息」であり「苦悩」を具現化したものなのだ。聴き手のテンションを奪う間合いというのだろうか?

kaz




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