ピアノのある生活、ピアノと歩む人生

「ピアチェーレ」代表の私的ブログ

レール演奏 

 

クラシック音楽に詳しくはない人、僕の友人にはそのような人が多いのだが、限度もあると思う。「えっ、トルコ行進曲?それってチャイコフスキー?」みたいになると、それは一般教養としてどうよ・・・とさえ思えてくる。「ショパン?白鳥の湖?」のけ反りそうになるが、そんな人がヴンダーリヒの歌うシューマン「詩人の恋」の歌唱を聴いて涙したりするのだ。作曲家についてとか歌曲についてどうたら・・・なんて知識は皆無。むろんヴンダーリヒについての知識も皆無。でも反応するんだ。

僕の友人よりも遥かに音楽の知識があり、中にはピアノを習ったり弾いたりさえしているのに、音楽を聴いて「泣いたことがない」なんていう人だって存在するのかなぁ・・・などと思ったりもする。どうなんだろう?

クラシック音楽は堅苦しく難しい、そう感じている人が多いのは事実だろう。何故だろう?僕は演奏家のせいもあると思う。上手いとか下手とか、そのようなことではなく、心に響かない・・・それだけで一般市民(?)は離れてしまうのだ。

「私って高尚じゃないし、知識もないし、そんな難しいもの理解できる能力なんかないし・・・」

そうではなく、心を動かせなかった演奏に責任があったのでは?

最近の・・・というか現代の演奏の特殊性というものも僕はあると思う。シフラのようなピアニストの演奏を聴くと、好き嫌いということは人によってあるとして、それは当然だとしても、作品と演奏者とで一体感が感じられる。何故その曲を、その人が弾いているのかという根本部分が明確であり、伝わってくるのだ。「僕はこの曲、この音の世界のこのようなところに共感し、それに浸かり、さらには感じたものを表現したい」というものが自然に伝わってくるのだ。

現代のピアニストの多くは優秀だ。メカニックに関しては多くの人は往年のピアニストたちよりも現代のピアニストのほうが優れていると感じているらしいが、僕はとてもそうは思えない。平均化されているとは思う。昔よりも難曲を弾ける人が多くなった・・・みたいな意味では。

現代の多くの演奏を聴いて非常に欲求不満になるのは、「一体感」とか「共感」とか、そのようなものをあまり感じられないから。シフラのように「僕、この曲が好きでたまらないんだ!」のようなものが不足しているというか?

演奏者という「私」がいる。そして対処すべき「作品」がある。対処法としてのスキルはとても優れているのだ。でも「私」と「作品」がレールのようにいつまでも平行線で一体化することがない。ここが不満だ。どんなに上手でもそれではつまらない。僕はその演奏家のスキルを聴きたいのではない。どれだけ弾きこなすかを知りたいのではない。その演奏家、つまり「私」と「作品」とが化学変化を起こし、一体化する瞬間、そのようなものを感じたいのだ。

このピアニスト、とても有名みたいだ。スターピアニスト?別に嫌いではないし、下手とも思わない。上手だと思う。非常に高い演奏スキルを身につけていると思う。でもレールみたい・・・とも思う。この曲でなくてもよかったのでは?「イスラメイ」と「半音階的大ギャロップ」・・・どちらでもよかったのでは?作品との一体感・・・ここが惜しいのだ。欲求不満になってしまうのだ。他の曲では一体感があって素晴らしいのかもしれないが、少なくとも、この曲の50年前のシフラの演奏と比較すると、一体感、その曲を弾いているという意味のようなものは大いに不足していると個人的には感じる。

リストの曲って平行線のような、レールのような演奏を拒否してしまうような頑なな難しさがあるのかもしれない。

kaz




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