ピアノのある生活、ピアノと歩む人生

「ピアチェーレ」代表の私的ブログ

公開講座 

 

かなり昔のことになるが、アメリカに滞在していた頃、その頃は、むろん、ピアノなんて弾いていなかったけれど、結構な数の公開講座、マスタークラスを聴いた。僕でも(誰でも?)知っている有名な演奏家の講座(レッスン?)が多かったけれど、その指導が実に具体的であるのが印象的だった。「素敵な夢のようなお芸術論」というよりは、「解剖」というか「物理学」というか「生理学」というか?

「このように鍵盤を押すのだ」「このような効果を導くのには、このようなやり方があるのだ」みたいな?有名な人ほど、惜しげもなく秘術(?)を披露してしまうみたいなところがあり、「そうか、人を惹きつける演奏には、理由、法則が存在していたんだ」などと素人ながら感じたものだ。

表現というものは、未知とか曖昧なものから、才能ある人だけが見つけるものではなく、誰でも実行可能なものなのだ。ある法則を知れば・・・

日本でも同じような講座を聴いた。アメリカでは有名な演奏家のものを聴いたが、日本のそれは「高名な教授、有名な指導者」のものが多かったので、それらのものを聴いた。ピアノは再開していなかったけれど、心の奥底には弾いてみたいという希望を感じていた時期だったように記憶している。日本のピアノ教育って今はどんな感じなんだろうという興味もあったように思う。

まず感じたのは、指導者ということもあったのかもしれないが、先生が弾かないということだ。すべて口頭説明?そして説明も非常に抽象的なのだ。その点では、かつてアメリカで聴いた演奏家のものとは正反対だった。

「そこは妖精が舞っているように弾きましょう」「かすかに霧が晴れていくような感じで・・・」「ホッと一息ついているような感じで・・・」

~のような感じ?~をイメージして弾きましょう?

逆パターンもある。それは例えば、「脱力」のように一つのテーマに絞った講座で多いように感じたのだが、目的が音楽表現ではなく、脱力行為に移行してしまうようなもどかしさを感じた。抽象的ではない。妖精のように脱力しましょう・・・なんてことはなく、言っていることは具体的ではあるのだが、「ああ、できましたね」という着地点が行為そのものであって、表現ではないというところに違和感を感じたりした。「別に脱力に惹かれるわけでもないのでは?」みたいな?人はなんて素敵な脱力でしょう・・・なんて聴き方はしないのでは・・・・と。脱力は表現のための手段なのでは?目的化しすぎてない?

バランスのとれた公開講座を聴いてみたいと切に思う。生徒って具体的な方法を知りたいものではないだろうか?そして具体的アドバイス、法則の伝授によって、実際に一瞬でも変わることができたら、それは生涯忘れることのできないような瞬間なのではないだろうか?家に帰ればできなくなっているんだね?そんなものだ。でも「できた」という瞬間は忘れない。

表現力とかって、もともとの才能みたいなものなんじゃない?ない人にはないのでは?どうせ私には感受性とか才能なんてないんだし・・・

そうではないのだ・・・という公開講座を聴いてみたいものだ。

具体的な法則によって、一瞬でも変わることができた、日頃感じていた悩みに光がさした・・・

自分も変われるんだ・・・この瞬間、聴いているほうも嬉しくなるね。

そんなピアノの公開講座があったらいいと思う。

kaz




にほんブログ村


ピアノ ブログランキングへ
スポンサーサイト

category: レッスン

tb: --   cm: 2

△top

コメント

 

はい、頑張ります。。(^_^)

日程は未定ですが、今、お話しいただいている講座は、そういう講座にしたいと思っています。
・・というか、kazさん、そんな風に公開講座でも勉強されたのですね。

そして、アメリカでは、具体的なアドヴァイスでどう変わるかという、
音も、表現も、実際の演奏で、違いを感じることができた。そこが大切ですよね。

レッスンもそうだと思います。ヨーロッパに数年留学した門下生によると、
今どきのヨーロッパでは、私のようなレッスンが主流だとのことでした。
つまり、体のこともタッチのことも表現のことも、全部繋がっているというレッスンが、
普通なのだそうです。(お年寄りの先生は、まだ、そうでもないとのことでしたが。)

少人数であれば、ピアノの近くへ皆さんに来て頂いて、ハンマーの動きの違いを見て頂くこともできるかなと思います。

頑張ります。。(^_^)

Megumi #3/2tU3w2 | URL | 2016/08/17 19:12 | edit

Negumiさま

アメリカでの公開講座、僕が聴いたものは、アメリカ人よりも、むしろヨーロッパの人、特にロシア人のものが多かったような?

記事のように具体的と感じましたし、日本の先生は抽象的とも感じました。そのせいかどうか、日本の先生は生徒の音楽を変えてしまう・・・というか、作ってしまう印象をも持ちました。外壁攻めというのでしょうか?「ここはこう歌って」とか「そこはこう盛りあげて」のように。

アメリカでの公開講座の印象では、先生はそれはしない。サラサラと生徒が弾いてしまうと、まずは止めます。そこまでは日本の先生と同じなのですが、止めた後、先生が実際に弾きます。そこであまりの違いに客席から笑い声が起こったりするわけですが。

「こうしてみたら?」「そのような場合は、ここをこうして、この部分はこうして」と一回「曲」から離れて(?)音型レッスンみたいな感じになります。

「なんとなく音は弾けるんだけど、その先が・・・」ということで悩んでいる人は沢山存在していると思います。「ただ弾ければいいんじゃない?」という人もいるでしょうが、少数派だと思います。なんとなくのイメージはあるのですね。そして人の演奏を聴いて、自分に欠けているものも感じることができる。でも「なんとなく」ではあるんですね。

具体的なもの、それこそが抽象的とも思えるような「表現」というものと密接につながっている・・・

Megumiさまの公開講座で「えっ、今までの練習って何だったのだろう?」みたいな思いを持つ人もいるのではないでしょうか?

「私ってただ音を並べているようにしか弾けない」「表現力ってどうしたらいいの?その方面に関しては才能がないのかも?」

もしかしたら、ただ先生から教わっていない、具体的な方法を伝授されていない・・・というのが理由なのかもしれません。

kaz #- | URL | 2016/08/17 20:23 | edit

△top

コメントの投稿

 

Secret

△top