ピアノのある生活、ピアノと歩む人生

「ピアチェーレ」代表の私的ブログ

誕生日に寄せて 2 

 

自分のやりたいことを阻むのは他人ではなく自分・・・なのかもしれない。

長いブランクを経てピアノを再開するにしても、大人になって弾き始めるにしても、ピアノを本業にしていない限りは、ピアノなんてなくても生活はしていける。でもその人なりに突き動かす欲求があったから弾いている。何がそこまで自分を引っ張ってくれたのだろう?

恐る恐る指を動かしてみる。そして曲を弾いてみる。そのくり返しだ。ただ難曲を制覇したい・・・という人もいるのかもしれないが、それはその人の選択。そうではない場合、自分を突き動かしたものから逃げない方がいいような気がする。

部屋で自分一人で弾いてれば満足、それが自分のピアノという人もいるだろう。それもその人の選択。でも多くの人は、自分を突き動かしたものを共有したい、つまり人前で弾いてみたいという欲求が湧き起ってくる。

恐る恐るサークルなどに参加してみる、子どもばかりの発表会に勇気を出して参加してみる、いろいろとあるだろうが、ここが他人との関わり、共有との出発点となる。そこで一人では味わえないような経験をすることもできるけれど、そうではない場合もある。無意識のランク付け。弾いてきた歴史も、経験年数も、日常生活も人それぞれなのだから、そこであまり他人と比較しないほうがいいような気がする。むろん、いい演奏だな、自分もあのように弾けるようになりたいなと感じたのだったら、正直に自分も進んでいけばいいと思うけれど、現在の自分を受け入れられない時もある。その時に、他人と比較し、自分の辛い状況(弾けない・・・とか)を他人に責任転換しないこと。「あの人は上級者だと思って私をバカにしているんだわ」とか。誰も、そんなにヒマ人ではない。人のことなんか実はそれほど気にしていないものだ。人生を終える時の自分が判定を下すのだ。「あなたは本当にピアノが好きだったの?だったら自分を動かしたものを正直に追っていればよかったね?残念だけど時間切れだね?」と。

自分を突き動かしたもの、その「何か」を追うということは、現時点での自分を正直に受け入れる辛さを伴う。進むことで失敗もするだろうが、まずは進んでみることだ。理由をつけて逃げているよりは最後の審判の時に後悔しないはずだ。進めない自分がいてもいいけれど、その理由を他人に転換しないこと。

サークルにしても、もっと小規模なピアノ仲間との内輪での弾き合いでも、発表会でもいいけれど、アマチュア同士で集っているぶんには、同じアマチュアなので、攻撃されることもない。でも、もう少し進んでみたいと思った時、具体的には「一曲を本番に向けて練習して・・・」だけではなく、自分の世界をもっと多くの人と、そして一曲という小さな世界ではなく、もっと大きな音世界、広い音世界を共有してみたいと思うことも出てくる。僕の場合だと、ピアチェーレの活動とか、一人でのコンサートとか・・・

「アマチュアの分際で・・・」「素人さんって気楽でいいですね?」「そんなことよりも基礎からきちんと学び直したらどうですか?ピアノなんてそんなに甘いものではないんですよ?」

このような攻撃を受けることもある。これを受けるのは非常に疲れるし、何故か傷つく。アマチュア同士の軋轢・・・など比較にはならないぐらいに辛い。何故そんなことを御叮嚀に書いてくるのだろう?

そのような時、「ああ、やっぱりやめておけばよかったな」と正直に思う。でも死ぬ間際の自分は今の自分にどう言うだろう?どのような判定を下すだろう?「やはり何を言われても自分のやりたいことをやっていれば後悔しなかっただろうね?でも時間切れだね?」そう言われるのがとてもイヤなのだと思う。

「そんなぁ・・・プロでもないんだしぃ・・・」そうだけど、もし来年、交通事故に遭遇して両腕を失ってしまったら?半年後、身体のどこかに悪性腫瘍が見つかったら?そうならない保障はない。

人は失敗したこと、恥をかいたこと、そんなことで死ぬ時に後悔はしないものらしい。では何に後悔するのだろう?

「理由を巧みにつけて、やらなかったこと」みたいだ。

kaz




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