ピアノのある生活、ピアノと歩む人生

「ピアチェーレ」代表の私的ブログ

横並び 

 

イヴ・モンタンの「枯葉」・・・ライブ録音を含めると、いくつかのバージョンがあると思うけれど、この「枯葉」は割と伴奏が規則的な感じではないだろうかと思う。でも自由に歌っている印象を持つ。その意味ではカルロ・ブーティと同じだね。左手の都合に合わせるのではなく、左手を聴きつつも自由に右手を歌う・・・みたいなところ。

イヴ・モンタン=シャンソン=おフランス・・・的なイメージがあり、実際にそうなのだろうが、彼は実はイタリア人。本名はイーヴォ・リーヴィという。幼少の頃にイタリアからフランスに移住しているので、まぁ、フランスの人なのであろうが・・・

戸外で遊んでいるイーヴォを母親が二階からいつもこう呼んで(叫んで?)いたみたいだ。「Ivo monta!」(イーヴォ、上がっておいで)と。イーヴォ、モンタ!・・・これが彼の芸名となった。イヴ・モンタン。大切な芸名のつけかたとしては、とてもお茶目な感じで、いいと思う。

「なんでただ音を並べているようにしか弾けないのだろう?」

この永遠の課題のような、悩みのようなものをツラツラと考えてみると、まずは、その人が「何も感じない」ということが理由の一つに挙げられるように思う。素晴らしい演奏を聴いても「だから?」とか「別に・・・」みたいな?でも、そもそもこのような感受性さえ持たない人がピアノなどを苦労して弾くものだろうか?そもそも、音を並べているようにしか弾けない・・・と感じること自体が、何かを感じているということでは?

感受性というものは、自分を見つめる、自分の内面を探っていくという能力とも関係があるだろうと僕は思っている。ピアノ修行(?)の中で、自分の内面というよりは、「こうあるべき」「こう弾くべき」「このような演奏、弾き方が正しく主流なの」みたいなものを外部からインプットしてしまい、自分の内面にあるものに自信が持てなくなっていく。

最も大切なものは、ある演奏を聴いて「なんて素敵なんだろう」と素直に感じた、自分自身の内面に存在しているのでは?むろん、知識も情報も大切だが、ピアノを弾いているのは自分なんだから。感じたのは自分なんだから。

自分自身を無意味にカテゴライズしてしまうと「音並べ演奏」になってしまう可能性がある。「自分なんて○○だし・・・」と。感じたのだったら、そこに自信を持てばいいのに・・・感じたもの、つまり内面を見つめていく。なぜ、どこに魅力を感じたのだろうと。そこから、どうやっているのだろう・・・に発展させていく。

外国に少しでも住んでみる(旅行ではなく)と、なんとなく日本は横並び思想の強い国だということを感じる。皆と同じだと安心するみたいな?本当は人と違うから面白いのに。でも世間一般が横並び思想だと、本当はそれが心地よくない人は、窮屈な感じがしてしまう。自由に呼吸できないというか。その主流、こうあるべき、皆と同じ・・・みたいな枠から飛び出してしまえば自由になる。でも孤独になるんだよね。そこが辛いところだ。

イブ・モンタン・・・この世で最もセクシーな男性だったのではないだろうか?「えっ、ただのオジサンでは?」そう思う人がいてもいいし、そう思う人がいて普通だとも思うけれど、世間一般の、いわゆる「イケメン」がセクシーな男性とか素敵な男性という横並び思想の刷り込みはないだろうか?

スーパーモデルのような容姿が素敵なのだろうか?皆がモデルのような容姿に憧れダイエットに励むのが普通なのだろうか?そうは思えない人は異端・・・ではなく、自分の価値観を捨てたくない人なのでは?

ある演奏に対して、素敵・・・と感じたのだったら、まずはそう感じた自分が素晴らしい。異端者扱いを恐れずに、自分の内面に向かっていく。大切なのは○○奏法とか、コンクールで入賞する演奏でもなく、自分自身の中に存在している・・・

イブ・モンタンを世界一セクシーな男だと感じ、翻弄さえさせられてしまった女性たち、エディット・ピアフ、マリリン・モンロー、そしてシモ―ヌ・シニョレ、彼女たちは自分の価値観で行動したのだ。

kaz




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