ピアノのある生活、ピアノと歩む人生

「ピアチェーレ」代表の私的ブログ

同じ音型の連続の場合 

 

同じ音型が連続される曲って難しいと思う。曲の全部ではなくても、ある部分で「連続している」と感じるような時、モーツァルトのソナタの左手とか?アルベルティバスが連続していたりする。ドソミソレソファソ・・・みたいな?チェルニーなどのエチュードもそうかな、エチュードだから同じ音型が連続する。「チェルニーなんてつまらない」「無味乾燥・・・」

でも、考えようによっては、ピアノソロは制約が少ないのではないだろうか?なんだかんだ言っても、一人で弾くわけで、誰に合わせるわけでもないし、難所は微妙に遅くしたりしても(無意識にそうなっても)誰が文句を言うわけでもない。そこが難しい・・・のかもしれないが。

同じピアノでも伴奏となると、制約が多くなるのかもしれない。チェンバーなども含めて。一人で弾いているわけではないからね。声楽、特に歌曲の伴奏、そのような意味で大変なのではないだろうか?

歌曲の場合、結構、同じ音型の連続・・・という恐ろしい曲も多いような気がする。シューベルトの「野ばら」なんて、聴いた印象では「まっ、いかにもシューベルトの世界だわ」という感じだが、この曲の伴奏、ブンチャッ、ブンチャッの連続で「いったい私はどうしてしまったのだろう?」と思うくらいに難しいのではないだろうか?ソロのピアノ曲、超難曲をサラサラと弾けるようでも、「野ばら」の伴奏はとても聴くに堪えない・・・なんてこともあるのではないだろうか?

「野ばら」と同様に有名な曲、「鱒」・・・この曲も大変にピアノは難しいのではないだろうか?同じ音型の連続だし。歌のパートは「これがシューベルトの世界だ」的な素敵さがあるが、ピアノパートはチェルニー以上に場面変化が乏しく、同じ音型を繰り返している。「鱒」のピアノパートを機械的に弾いたら、聴けたものではない…様な気がする。無慈悲なまでに同じ音型が続くから。

「鱒」の歌唱、個人的にはジェラール・スゼーの歌唱が好きだ。素敵すぎてスゼーの歌声に昇天してしまいそうだ。

むろん、スゼーの印象が強いのだが、ピアノも素晴らしいのではないかと思う。ダルトン・ボールドウィン。鱒が泳ぎ、川面が動く。水しぶきに光が当たってキラリと・・・こんな光景が浮かんでくる。なぜシンプルな、同じ音型の連続でそのようなことが可能なのだろう?

ボールドウィンにだって初めて「鱒」を譜読みした時はあるはずだ。スゼーだって。

彼らは、一応音になったので、一応正しい発音でつっかえずに歌えるようになったので、表情をつけていこうとしたのだろうか?そうは思えない・・・実際はどうだったのかは知らないが、少なくともそのようには聴こえない。

どうしてだろう?

一日8時間、指だけ一生懸命動かしていれば、いつかはボールドウィンの音が出せるのだろうか?その音は欲求がなくても出せるのだろうか?

kaz




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