ピアノのある生活、ピアノと歩む人生

「ピアチェーレ」代表の私的ブログ

揺らぎ 2 

 

楽譜に忠実に弾きましょう・・・たしかにそうだと思うのだが、「忠実」ということの捉え方として、非常に狭いというか、固いと思う時がある。楽譜に忠実?だとしたらポリーニとアルゲリッチが同じ曲を弾いて違いを感じるのは何故だろう?二人とも楽譜を無視?そうではないだろうと思う。

楽譜にピアニシモと書いてあったら「ピアニシモにするのね」と思ってはいないだろうか?そうではなく「ピアニシモに聴こえるように」「ピアニシモ効果を反映させて弾く」ということでもあるのでは?

大真面目というか生真面目というか、PPとあったら「弱く」ではなく、ある音にテンションを集め、物理的にはその音を強い音で弾き、他の和音などと劇的な差をつけて、静寂効果を演出する・・・ということもPPではないか?

楽譜に忠実という流れ、これは演奏スタイルがザハリヒな流れになっていることと無関係ではないだろうと思う。つまり、原典主義というか、作曲者の意図を忠実に演奏に反映させ、演奏者の勝手気ままな感情過多演奏は排除される方向性。過去から現代にむけて演奏がザハリヒなものになってきた理由、それはロマンティックな演奏が主流だった時代の聴衆がザハリヒな演奏を求めたからだと思う。

ローゼンタールやフリードマンのような偉大なピアニストはロマンティックな時代に一握りしか存在しなかった。大多数は平凡というか凡庸なピアニストであった。天才は一握り。どの分野でもどの時代でも。凡庸なピアニストによる凡庸なロマンティックな演奏、つまり勝手気ままで感情盛り込み過ぎの演奏に聴衆は辟易したのだと思う。

「ああ、もっと音楽そのものを、作曲者のメッセージというのかな、そのような演奏が聴きたい」このような100年前の聴衆の想いが演奏スタイルを変化させていったのでは?つまりザハリヒな方向性。

さて、現在。天才というものは時の洗礼を受けても残っていく。でも現在は天才も凡庸もスターとして君臨している時代なのだ。時の洗礼を受けていないから。100年前、すべてのピアニストがローゼンタールではなかったように、現代のスターピアニストの多くは天才・・・ではないのかもしれない。今のピアニストで100年後も人々に愛聴されるピアニストは誰だろう?

我々は天才の演奏も、凡庸な演奏も聴かされていることになる。さて、ザハリヒな時代、かつて人々が「気ままな演奏ではなく・・・」と感じたように、今、我々はこう感じることはないだろうか?「サクサクと曲の外壁を聴かされているような演奏ではなく、その人でなければ聴けないような、演奏者そのもの、感情をストレートに聴きたい」と。「達者だけれど、他の優秀な人でも聴けるような演奏ではなく、もっとその人だけの感性のようなものを感じたい」と。

楽譜を読みこむ、行間を読む・・・みたいな?音の群れが上昇していたら、クレシェンドと書いていなくても自然とそうなることもあるのでは?作曲者はわざわざ書かないこともあるのでは?調が変化する微妙な箇所、そこには音符しか書き込んでいなくても、作曲者は「微妙な箇所だから感じろよ」と思っていたのでは?つまり音楽家として知っているべきこと、感じるべきことは、わざわざ「萌えどころだから留意してマーク」など記されていなくても演奏する側の仕事として、それは読み取るべきなのでは?

楽譜に印刷されていることを、そのまま忠実に鍵盤に移すということが楽譜に忠実ということではないとしたら?

演奏する側が、当然知っているべき「音楽語」のようなものが存在していて、作曲者はそんなことは書き込まなかったのでは?「ここは揺らいでね!」なんて書かなかったのでは?

kaz




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category: ピアノ雑感

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